2021/03/23 08:15
山から採ってきた八重桜の若葉とアケビの若芽、
畑から採ってきたアスパラガスと菜っ葉で作りました。
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[ 材料 ]
・アスパラガス (適量)
・菜っ葉(適量)
・E,V オリーブオイル (適量)
・ビーツ (適量)
・魚醤漬けのおかひじき (適量)
・八重桜の塩漬け (適量)
・アケビの若芽の塩漬け (適量)
・牛蒡パウダー (適量)
山から採ってきたクロモジとマツ、カタクリで作りました。
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クロモジで森の朝食
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[ 材料 ]
・パン (適量)
・E,V オリーブオイル (適量)
・一晩水気をきったヨーグルト (適量)
・乾燥させたクロモジ (適量)
・カタクリの花のキビ砂糖漬け (適量)
・マツ (適量)
・粗挽き胡椒 (適量)
[ つくりかた ]
1. パンを片面フライパンで焼く、焼き色をつけて香ばしさを出す
2. E,V オリーブオイルを熱して、クロモジ(乾燥)とマツを入れ火を止める。余熱で香りを出す
3. カタクリの花(キビ砂糖漬け)と漬けてあるキビ砂糖を分ける
4. お皿を用意しパンをのせたら、キビ砂糖を薄くぬる。
5. 濾したヨーグルトをのせて、2を垂らす。カタクリの花を散らす。
6. 追いE,V オリーブオイルと黒胡椒を好きなだけかけて完成。
クロモジの代わりに茶葉、カタクリの代わりにハチミツ、マツの代わりにオレンジで代用可
パンの香ばしさと、クロモジの苦味と香り、ヨーグルトの酸味、カタクリの蜜の甘い風味、マツのパイン香とサクサク感が堪らなく最高です!
おやつにはキビ砂糖多めがオススメ。
山に行くと必ずあるクロモジを使った朝食を作りたく思い、朝と言えばヨーグルトと言うことで合わせてみました。
クロモジの香りにはリラックス効果もあるようなので、コロナの状況下で、おうちでのんびり過ごす方へ作りました。
クロモジは、樹皮に黒い斑点がありクロキと呼ばれ、楊枝として使われていました。楊枝は宮中の女房詞では「~モジ」をつける風習がありクロモジと呼ばれ、木の名にもなりました。樹皮の皮目を文字に見立てた名(牧野)の説もあります。
山地に生え、高さは2~6mになります。やや暗い林内にも生えますが、林縁など明るいところの方が枝が茂り株は大きくなります。
枝の香りが良いことから、楊枝、箸、串、薬用など古くからいろいろ用いられていました。そのための地方名が多いようです。
飛鳥・奈良時代
6世紀初めにカマドが竪穴住居で使われた。
白米の主食に、野菜・海草の一汁、二菜。味付けは塩か醤・酒粕。甘味はほとんど摂っていない。
平安時代
平安京は格子状に区画された都市計画で、貴族住宅は寝殿造(寝殿と東西対象の建物群、池のある庭園を組み合わせる)である。庶民は棟割り長屋で粗末な造り。
市では近隣の産物始め遠国から送られてくる食料品や各地の名産が扱われ店ごとに商う品物
主食のコメの他、各種の穀類と、副産物として野菜類、果実類、魚貝類、獣肉類など多種類の副産物を摂取している。食事の回数は二階が通常である。
鎌倉時代(14世紀の南北朝時代)
名手の住宅は、畳のしかない板の間で床を高くし部屋の仕切りの板戸も備わった住宅、下層の農民は土間にスノコを敷いて暮らしていた。
衣類については、農民は当時、苧と言われた麻の着物を着用していた。
室町時代
農民はあちこちに散らばっていたが、この時代は一箇所に集まるようになった。
村の周りを掘りで囲んだ環壕集落と呼ばれる村が多くできた。屋根は藁葺きが多く、板葺きの家もあった。武家屋敷は部屋の上部に天井板が出現するなど構造上の変化が著しい。
書院造りの建築様式が起こりこれが和風住宅の始まりとなった。
市場は特定日に定期市をを開いた。
調理の面では、生物、煮物、焼物など和料理の基本が出揃い、茶料理から起こった懐石の流行で、素材に味をに含ませる調理法が普及した。味噌・醤油が使われるようになった。
江戸前期(貞享暦・太陰太陽暦/二十四気/雑節)
農民はダイドコロと呼ばれる土間に竃が設けられ、床上の広間には囲炉裏が切ってある。
土間に藁を敷いて寝る。城下町では武士が武家屋敷を構えて移住し、その周辺に町人が職種ごとに町屋敷をつくった。当時二階建てはまだ珍しかった
綿は晴れ着で、麻は作業着で便利だった。
江戸後期
大火の後に寺院や武家屋敷の郊外へ移転し、都市域は周辺に拡がっていった。
農家住居については間取りが広間型から田の字型(座敷・居間・納戸・台所/囲炉裏)へ普及していった。
武家や富豪が外食するようになり、専門の料理屋や仕出し屋が現れた。
明治期
幕末から西洋人の往来があり洋風建築が見られる。椅子やテーブルが広く使用されるようになった。障子にガラスが入るようになった。ランプに変わって電灯が灯るようになった。
ガスを加熱調理に使用する。
大正・昭和戦前期
第一次大戦後は5階建以上の高層建築も現れ、住宅も西洋風の応接間をつけた住宅が普及し、電灯・水道・ガス事業も発展して生活様式が変わっていった。
幹線道路と上下水道が整備され、山手線では環状運転も始まった。洋装が普及していった。
大正期の食生活は粗末で一汁か一菜であった。
食生活の洋風化が明治期に引き続きさらに進み、米を主食とする食のスタイルを維持しながら、それに合う和風洋食が豊富になった。住宅街が郊外に延びるにつれて飲食店の数も増加した。
食事スタイルも明治期になって従来の箱膳から年では共卓式の卓袱台を家族が囲むのが一般化した。
戦後期
住宅団地の建設が始めり鉄筋コンクリートの5階建てのマンションが建設される。
水洗便所や、ステンレス流し台・ダイニングキッチンを有する
上水道よりも下水道は遅れがちで、ゴミ処理施設も遅れていた。
全国交通網が急速に整備された、新幹線も走り、首都高速道路、空路(航空機もプロペラ機からジェット機へ)ができた
1990年代後半からパソコンによるインターネットが加わってきた。
米は少なくて芋や大豆などの代用食であった。小麦粉なども広く普及した。
高度経済成長期には、コメをはじめとする澱粉質は減少し、畜産物、果実などが増加するなど洋食かが進んだ。飽食の時代になり加工食品や外食の需要が強まった。
こうした傾向が続く中で、鮮度志向、高級志向、健康安全志向、消費者の傾向は多様化していき特に食品の安全性に対する関心が高まった。また日本型食生活を再認識する動きも傾向である。