2021/12/30 22:03
画像はクロモジの髄を食べるために外皮を炭化させ叩いた。
他には北方の叩き料理で食用植物ではヤナギランが利用されたともある。
乾燥した茎や茎から取り出した髄(ずい)も乾燥して保存食とされたようだ。
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以下は、叩きから見る須恵器の変遷を辿る。
叩きの技法は紀元前からあり、中国の仰韶時代の土器にはその技法が既に用いられている。日本では、弥生時代に朝鮮半島から伝わり、古墳時代の須恵器にも叩きの技法が見られる。
叩きは中国、朝鮮、日本の他、タイやミャンマーなどインドシナ半島、あるいはアフガニスタンまで広く分布している。
5世紀の中頃前後に、須恵器を作る技術を持った工人たちが朝鮮から直接日本へやってきた。
6世紀末ごろ、百済からやってきた瓦工の技術との融合が、須恵器生産の第二期の大きな原因となったかもしれない。(古墳への副葬用もさることながら、一般の生活の中へも浸透し始めた時期である)
陶土の鉄分含有量が多いと青灰色が深くなり黒っぽい色調になる。少ないと明るくなる。
古墳時代から平安時代にかけて焼かれた一部の陶器は須恵器の技法を受け継いでいる。
丘陵の斜面にトンネル状の窖窯を築き、燃料の量に対して供給する空気を制限する還元炎焼成を行ない、1200度以上の高温で焼き締める。
さらに、火をとめる段階で焚口・煙道を密閉して窯内を酸欠状態にすることで、粘土に含まれる鉄分が黒く発色し、焼きあがった製品は青灰~灰黒色となる。
釉薬は使用していないが、焼成中に降りかかった灰が熔けて自然釉を生じ、独特の景色となっている。
製品は、海上輸送によって日本海沿岸伝いに運ばれた。
14世紀には最盛期をむかえて、日本列島の4分の1を商圏とするまでになったが、15世紀後半には急速に衰え、まもなく廃絶した。
叩き締めは須恵器系の技法である。
叩打は、上からみて右回りのロクロ回転を利用し、内面にこぶし大の円礫または陶製扁円形の押圧具を当て、普通木目と平行に条溝を刻んだ打圧具で、外面を縦に連続して叩き締める。右下がり一方向のほかに、上→下、下→上を交互に繰り返し叩き目を交差させ綾杉状とした個体も多い。
山形県楯ノ腰経塚例では、24列にわたり約150回前後の叩打痕が確認できる。
片口鉢や一部壺類の底側面にみる「削り技法」、瓶類で器面の質感を出すための「磨き技法」、甕壺類内面の押圧痕の消去や外底面の部分的な軽い調整のための「撫で付け・撫で回し技法」などが一般的に認められる。
一部地域で須恵器の生産技術を選択したのは、陶土という自然的要因よりも、生産技術系列の継承という人文的要因の規定性が大きかったからであろう。
ただ、そうすれば、製品や大形の窯体にみられる東海の瓷器系の影響をどう評価するかが、改めて問われることになろう。
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叩く行為と用いられる道具について、最も古い形態は猿人段階まで遡る。ケニア北部で発見された。
ハンマーとなる石と台石、鋭利な刃物を作るための石がセットで見つかった。
旧石器時代(旧人時代)に亀甲状の石核に打撃を加えて破片を取り出すルヴァロア技法または破片にさらに加工した石刃技法がある。
新人段階では石刃を製作する技術が発展した。
これに対して、一旦製作された石器を使った二次的な叩き技術がある。
旧石器時代の石皿と磨り石である。
日本の縄文時代(定住化の普及)の遺跡からは圧倒的に多く出土している。
古代エジプトやメソポタミアでは、臼と杵はもっと古くから食用と薬用に使われた。
14世紀になると青銅が材料として使われるようになった。
石臼と石皿を用いた叩き技法は、日本のすり鉢とすりこぎに類似した道具としてアジアにも広く見られる。
(縄文時代の叩き文化を探る原点が南北海道から北東北にある)
参照文献
秋道智彌【たたきの人類史】玉川大学出版部 2019
田辺昭三【須恵-日本陶磁大系4-】平凡社1989
谷川徹三【土師器 須恵器-日本の陶磁篇1-】中央公論社 1990