nokatachi

2022/02/01 09:30



甘さがエリートの料理を物語るものであったとすれば、庶民の料理は何よりも塩味が中心であった。一年を通じて最低限の食料を確保する役割を果たす保存食品の中には上流層の食卓に登場する素晴らしく美味なものもあったが、何と言っても家庭内で普通に作って食べるような「日常の」食生活の基礎となるものが圧倒的に多かった。これこそが、中世以来、金持ちと貧乏人、領主と農民の食のイメージを第一に区別していたものである。

食事の内容を選べるものに対して塩漬け肉を避けるように忠告している。なぜなら、塩によって脂肪分が失われた状態になった肉は消化しにくいからである。魚についても同様の警告が与えられている。


ラテン農業文明の真の象徴であったオリーブ油が持つ威信と対置されたのは、バターとラードである。バターとラードは蛮族の遊牧と牧畜の文明を象徴するものだった。

ローマ人が豚の脂を嫌っていたわけではないが(ポー川流域はかつてのケルト人支配から文化的な影響を受けており、イタリアで最大の豚肉生産地で、ローマの市場へも豚肉を供給していた)、首都の民衆に皇帝たちが気前よく配給した食糧の中に豚肉が登場するのは3~4世紀以後のことである。中世初期、ゲルマン文化の拡大の後に押されて森林経済の価値が高まると、ラードは食体系の中で強力な価値を与えられている。しかし、6世紀になってもまだ選択肢としてオリーブ脂を優先させるローマ文化が残っていた。

ゲルマン民族が政治的にも社会的にも地歩を固めたことは、肉類一般と並んで、獣脂のイメージ改善をもたらした。

宗教典礼の暦が課す戒律は、修道士だけでなく全てのキリスト教徒に対して、一年のうちに多くの日々に四足獣を食べないように強制した。この戒律は獣脂の歴史によって決定的な結束点となった。戒律に縛られる日々にはラードを植物性の油で代用することが避けられず、こうして中世の食文化の中でラードとオリーブ油を交互に使用するというそれまでなかった状況が生まれた。

ラードとオリーブ油は、もはや異なる文化、異なるイデオロギーと社会を表現するものではなくなり、社会全体に共通する単一の消費体系の中に統合されたのだ。



実際には、統合は完全なものではなかった。実質的にはラードだけがだけが一般に使われるようになったからだ。オリーブ油はオリーブが栽培されている地域以外ではかなり高価なものであったため、エリートのための食品であり続けた。

それでは四句節期間中の戒律の問題はどのように解決されたか。

まず、様々な産地の油が持ち込まれる市場で手に入れる方法があった。

もう一つの方法は、別の植物油で代用することだった。

(例えば、クルミ油は古代ローマの人々にはムカつくような味と受け取られていたが、中世の間に予想もしない成功を収めた)

しかし、オリーブ油は高価だったため、粗悪品が市場に流れた。

そして、中世末期(15世紀前後)の数世紀には、教会当局が禁欲期間中の油の代用品としてバターの使用を、許可した。

(これは初めのうちは北ヨーロッパだけ[民衆や農民レベルでバターを使う伝統があった]だったが、やがてイタリアのような南欧の国々にまで広がった)


19世紀末、様々な地域の伝統の多様性を考察しながら、「その土地で最も好まれている油脂」を使って「土地の人の好みに合わせて」使う。と指示を出している。これは多様性を尊重する思慮深いものではあるが、多様性の定義において地域的重要性を過大に評価している。実際には、ほかの変数、経済的なものではなく社会的・文化的性質の変数、宗教的戒律が課す義務、食物のイメージ、流行のメカニズムなど、が何層にも積み重なった習慣の価値観を作り上げてきたのだ。

20世紀になってからも「地中海式ダイエット」が発見されたおかげで、オリーブ油の新たな反撃が始まっているからである。歴史はまだ終わっていない。


食欲と空腹の区別、食欲と貪欲の区別、そしてそれらの異なる意味を分析することが、近代のガストロミー(美食術)が誕生する前提となった。そして、それをさらに支えたのが、自由の原理という儀礼が順守すべきものと、食事の主観的な捉え方だった。

19世紀初め以降、ブルジョワジーの食卓では美食家がテーブルの上座につき、その場をつかさどる様になった。ガストロミー(美食術)とは、古代ギリシャ語の「胃(ガストロス)」と「規範(ノモス)」の二つの言葉を組み合わせて造語された。


美食家は、自分の家と使用人を持っていたが、招かれれば喜んで外出し、最上級のレストランに通った。宮廷で食事をした経験こそないにしても、良きポスト役の人物から食事を招かれて意見を求められた。彼らは決して道の人種というわけではなく、裕福でありながら自由な文化習慣を誇示する人々だった。快楽を手に入れるために生きたが、どんなやり方でも良いというわけではなかった。独身者でもあることがあったが、家庭生活の守護神たる女性と猫を愛し、自らを抽象的存在と捉えていた。たっぷり食べるにしても過度にならない食欲に耳を傾け、容量が大きくて適切に満たされるべき腹を誇らしげに撫でながら、自説を開陳した。美食家は道楽者のエリートだった。

19世紀初頭以降、帝政ローマの宴の神話が薄れて具体性を失って生き、それに変わって発展したのが親密な人がけで食事をすることを尊ぶ信仰であり、太鼓腹とチョッキが目立つ身体を尊ぶ信仰だった。

食べ物の喜びと社会的価値の背後には、健康に対する懸念が強く存在していた。健康とは個人的な資本であり、贅沢な食事がしたという願望であるとされた。

美食家にとって健康が持っていた意味は、「慢性の炎症」で苦しむ胃のことであった。

消化器系は絶え間なく食べ物が通過し、胃炎やそれに類似した遠洋で衰弱する。

自分の体への関心とエネルギーを与えてくれる食べ物に対する関心は、美食家を家の中に籠らせる傾向をもたらした。レストランやトラットリーアが緊急の際(旅行や一人での食事)に利用するもので、カフェやクラブが男性がたまさかの気晴らしをする場所だったのに対して、台所と食堂は平日や休日の確かな避難場所だった。料理人(あるいは料理女)は「医者よりも役に立つ」のであり、美味しい食事だ作れることのほかに、食べ物の質に詳しくなければならず、正直で清潔でなければならなかった。

こうした家庭文化は美食論に、男性好みと女性が作る料理との関係がますます深まったこと。

快適な家を持っているという理由、互いに招き合うことができるという理由から、美食家は美味を経験する場として自分の住居を選んだ。こうしたブルジョワ革命、家庭革命の中から父親たちが生まれてきたわけだが、彼ら外とサラ料理の先駆者でもなければ、料理を趣味とする人々のパイオニアでもなかった。彼らは味にうるさく、よく食べる人々だった。

20世紀初期には、巨大なゼラチン細工の料理や豪華に装飾されたケーキ類は姿を消した。料理を一度に出して誇示するのではなく、食事の途中で料理を出したり、組み合わせるワインに気を配るといったことが洗練されたスタイルであるとされた。

20世紀に至るまで、レシピ集の中で女性の食べるものが検討されることはほとんどなかった。(妊婦や産婦、乳母だけが関心の対象とされ助言を受けていた)。このころの主婦の悩みは、家庭のうちにおいても外においてもより大きな自由を得たことからくる悩みだった。とりわけ彼女らは外見をコミュニケーションと社会関係の視点で考えるようになった。「痩せて、ほっそりして、スタイルの良い」身体は、ますます階級を超えたモデルとなり、自分自身のことを考えるようになった。かつては奉公人と分かち合っていた献立を考え食事を準備するという仕事も、お手伝いが一人しかいなくなれば、より簡素なものとなって厳粛さを失うようになり、その結果、義務というよりは、愛情を示す機会へと変化した。

第二次大戦後最初の重要なレシピ集である銀の匙では「美しくなるための食事」という形で現れている。(19世紀後期のレシピ集だと「胃の弱い人のための料理」18世紀だと「知識人の健康」)自己犠牲によって身を削る越した倫理は、健康や成功に結びつかなければ正当化できない。

今日の料理=栄養教育においてうんざりするほど繰り返されているのこの理想は、1950年に始まった。

医学や美学からのレシピ集の自立は、進むどころか、食欲の摩滅によってしぼんでいった。

食欲や太鼓腹の支配は消滅し、それに変わって食べ物が制限され、魅力的な科学的前提によって作り上げられた偽りのアイデンティティが喚起された。痩せるための「ダイエット」がヘゲモニーを握る時代が始まった。

ファシズム期の食料支給政策から戦後の配給制度、そして経済復興の兆しがほの見えてくる1950年に至る過程で、最も驚くべきは変化の速さである。12年の間に体の管理は、経済制裁から配給手帳へ、闇市場からやりくり技術へ、ブルジョワジーの栄光の残骸からアメリカ式ダイエットや消費ブームへという変化をくぐり抜けた。飢えた経験の後に戻ってきたのは食欲だけではなく、忘れたいという欲求だった。それ以降、分離型ダイエットが登場している。1植物性タンパク質2動物性タンパク質3野菜と脂の三つである。この分離はつまるところ、医学と美食の二つのモデルに関連していた。

ここまで示したように、身体や様々な欲求を抑圧すること、食欲という原理を否定すること、節度と喜び、栄養学と料理を両立させることを可能にしてくれる唯一の原理たる食欲を否定することから生まれたのではないかと思っている。


参照文献:アルベルト・カパティ【食のイタリア文化史】岩波書店 2011