2022/06/20 20:14
山菜の季節が終わる。
冬の雪をじっと我慢した身体は春の苦味を欲した。
春になった頃、山菜を無性に食べたかった。あの美味しさを知っているから時々山に入っては採集して食べた。
そして、春の身体になった。
食べることで身体が新しく成るように思う。
そこに成る食べ物は確かにそこを媒介する。
辺見さんの著書「もの食う人びと」では、食を巡る事柄とは、身体がある場所に根付いていた痕跡として理解されるが、根づくのは常に食物のみで身体はその環境と対峙するモノでしかないと思う。
(身体は場所に根づくという言葉よりも、その場所に対峙できる身体を手にするという方が今の私にはしっくりくる。その場所に長年居てその場所の食べ物しか口にしないのなら話はそうなのだろうが)
農作業をするとほぼ毎日、日差しの強さ、風の強さ、雨の強さのどれかにさらされる。
そうすると身体を環境に適応させないとやっていられない。
だからそこに成る食べ物を食べるのだ。
明日さらされる身体を毎日少しづつアップデートしていく。そしてその微かな身体の変化を自然は教えてくれる。