nokatachi

2022/09/24 14:22


ダニエル・ミラー

『消費は何を変えるのか
 環境主義と政治主義を超えて』

 (貞包英之 訳 法政大学出版局 2022年)


夏ぐらいに買った本『消費は何を変えるのか』を読んでいます。


先月末には商品の営業で県外に伺ってきました。

店主の方と話すと、商品のどんなところに興味があるのか、その店の売れるものや、お客さんに届けたい価値観も知ることができます。とても楽しいです。

そんなわけで、今の私が興味あることは「消費されるモノ」です。

本の中で触れられてた「食事と消費」を入り口にして検討していきます。


一通り読んでみて見えてきたことは、「社会的な関係こそ、消費の最大の原因」ということです。

章ごとに、気になる箇所を抜粋(一部考察)しました。

当面は以下のことから、さらにNOKATACHIの商品を検討し直すことになりそうです。



食べるの構成要素:食卓(食事)

 人類学的観点から、世界を形づけてきたモノは、捧げものに基づいてできており、それをどのように実行するかについて、驚くべきほど詳細な注意が払われてきました。これは一つは生産と消費の関係があり、またこの儀式に用いられる犠牲の多くは食事をモデルにしています。

 例えば、何が犠牲にされたかをみると、一般的に聖書では、最初の果物や、生まれたばかりで汚れの無い子羊です。最初の完全な生産物はその創造主に戻され、その残りが人間に消費される。神の介入によって世界が常に補充されなければ、消費によって世界は使い切られてしまいかねなかったのです。なので、最初の交換は神(nokatachiの場合は山)との交換で、二番目が他人との交換です。



第一章 消費の何が悪いの?

 消費するとは、それを使い切ること、実際にはモノを破壊することを意味しています。

例えば火事が家を喰らい尽くす(=消費する)と言うように。2世紀前、消費は結核と結び付けられ、だんだんと消耗していく病気のことを指していました。

 もし自分が育てたモノを消費するだけなら、とても小さな円を描くことになってしまいます。

だからこそ、多くの社会はそれを禁じています。生産したものが他人と交換される。人類学では、相互に負積を返す義務を負わせる交換こそが社会関係の基盤であると教えられます。

財が神と交換され、社会的な関係を築くために使われたならば、消費しても良い。もしこのような交換を一切経ずにただ消費されるばかりなら、それらの生産物を使って文化的な世界を創造する機会も失われてしまいます。これは過去の全ての社会や、現代のほとんどの社会に共通する考えて思われるのです。


第二章 消費社会

 「消費社会」という言葉は、その社会の核となる価値観を表現するために商品がますます使用される社会のことを意味しています。しかし同時に社費社会とは自分の価値観に気づき、認識し、理解するための主要な形式に消費があっている社会のことでもあるのです。


第三章 なぜ買い物をするの

 消費とは、単にモノを買うことではなく、購入した商品がその後どのように変容していのかを含んだ、より能動的なプロセスです。消費はより社会的なプロセス、つまり疎外されたモノを疎外されないものへと変えることだったのです。

 人が商品を買うのは、個人の創造性や違いに配慮してと言うより、あるカテゴリーに属する人がこうあるべきと考えられているものに適合するためです。


第四章 なぜデニムなの?

 商品は市場によって供給されますが、消費の社会分析の伝統は、身分差や競争といった要因に焦点を絞ってきました。また、記号論にみられるように、消費はたんに社会的差異を地図化して示すものでもありません。記号的な意味だけに、対象を還元することを拒否する章です。それは、物質的なモノが私たち自身の関係性や価値観を表現するやり方に注目しています。


第五章 なんと愚かな経済

 経済活動を正当化しようとする試みの根底にあるのが、多くの場合が「価値」という用語です。価値とは、価格としての価値と、金銭的な評価に還元できない交換不可能なものとしての価値があります。

 一例として、多くの客が好意を寄せる英国最大の百貨店の価値を、価格やデザインなどに還元されない、より全体的な妥当性に基づいているとし、それは、機能、デザイン、価格がバランス良く結びついた商品を客の代わりに見つけることにあるようです。

 さらに金融危機を例に、その金融システムが生み出す利益はそれを支えるべき人々の利益よりも商業の利益が優先された結果だとしています。そこに価値という言葉が何を意味するかではなく、何をしているかについて考える必要があるのかが大事なのです。


第六章 地球を救う別のやり方

 単純な反消費主義は、問題を混乱させ、ごちゃ混ぜにしてしまうので、かえって事態を悪化させます。なので、反消費主義に陥るのではなく、地球の未来に最も問題のある行為や物質を正しく特定し、真正面から光を当てなければならないということです。



追記

アスパラガスを育てている土地は360度を山に囲まれた平坦な地形です。山間を抜ける北西からの強烈な風が吹く土地でもあります。

夏頃、アスパラガスの収穫をしていると昼間に急に豪雨が降ることが今年になって実感として増えました。雹も2度も経験し、傷ついたアスパラガスは出荷が出来なくなる事態となりました。

結果:海水温度が上昇し気候変動が多発し、人類が住める地域が極端に減る。

森林を増やすか、CO2を削減するか、人を減らすかでバランスを取る。

海洋に蓄積される熱量の大幅な上昇に伴い、海面の上昇気流は極めて発生しやすくなっている。


海や地面から蒸発した水分が上へ向かう大気の流れ「上昇気流」に乗って温度の低い場所までたどり着くと、上空の冷たい空気に冷やされて雲つぶができます。地球上では、あらゆる場所で上昇気流が発生していて、雲つぶが集まってできた雲は、上昇気流に吹き上げられて空にうかんでいます。

雲の中では、雲つぶが上昇気流によって上へと向かい、周りの水蒸気を取りこみながら成長していきます


人類が大気中に放出してきた過剰な二酸化炭素のせいで、地球の表面温度は上のグラフが示すように1850年から上昇し続けている。現在の気温は、産業革命前より約1.1℃高い。パリ協定で楽天的な予測に基づく目標として定められた1.5℃未満という気温上昇幅と、絶対的な上限と定められた2℃未満という数字がすぐそこに迫っているのだ。

しかし、これは世界平均の話であること念頭に置かなくてはならない。つまり、ほかの場所より速く温暖化が進んでいる地域もあるのだ。例えば北極圏では、世界平均の4.5倍の速度で温暖化が進んでいる。海の氷が溶けてなくなると、その下にある濃い色の海水が露出し、太陽の熱を多く吸収してしまうからだ。

海水は温度の上昇に伴い物理的に膨張し、体積が飛躍的に増える。海面上昇の原因の3分の1は、熱膨張にあるという。大気中の過剰な二酸化炭素と海水との間に生じる化学反応により、海水の温暖化と酸性化が進んでいる。


既存の数字から考えると、CO2排出の視点ではどの程度が日本の適正人口の上限なのだろうか。日本人のCO2排出量は9,5トン、家畜と自分達の呼吸を含めると年10,2トンだ。

杉林一平方キロあたり日本人86,3人×森林面積25,3平方キロ=2183万人になるらしい。


『鯖がトロより高くなる日』井田徹治 講談社 2005

『気候文明史』田家康 日本経済新聞社 2010



中川尚史

『食べる速さの生態学

 猿たちの採食戦略』
 (京都大学学術出版 1999年)


人類に最も近い種で500~600万年前に分岐したのはチンパンジーである。


調理時間や買い物時間よりもっと手間ひまかかるのが、食材そのものを作る時間である。

遡ることおよそ一万年前。紀元前8000年に農耕や牧畜が始まったのも、そしてその技術革新が押し進められてきたのも、エネルギーやタンパク質の摂取速度を高めるためであったことは明らかである。

野生の猿の場合では、生存にとって最も重要視されるカロリーやタンパク質の摂取速度を最大にすべく食物を選んでいた。

しかしそれはあくまで、それぞれの猿が住んでいる環境の枠内においての話である。

カロリーやタンパク質の摂取量を最大化するためにはできるだけ摂取しないほうがよかったタンニンや食物繊維をむしろある程度は摂取すべき方向に転換を迫られたのが現状だ。

これらは、寄生虫駆除などの薬理的効果を期待して積極的に利用されている。


植物食の動物にとっては、食物の摂取速度よりもむしろ消化速度の方が重要になる場合が起こりうる。


動物からしてみたら餌となる植物も、花粉や種子の散布者として動物を利用している。植物が赤や黄色の目立つ色で花弁を彩り、甘い香りを発するのも、花粉を運んでくれる動物を惹きつける宣伝のためだし、甘い蜜を持つのも彼らに対する報酬なのである。

逆に植物は食べられて困る器官に対しては、さまざまな工夫をしている。ブナや欅に豊作年と凶作年があるのもその一つであると考えられている。種子は、子孫そのものであるから食べられては困る器官である。毎年、同じ量の種子をつけてしまうと、その種子を食べる動物の数が増えてしまい、ほとんどの種子が食べられてしまう。しかし、豊凶の差が激しいとその種子を食べる動物の数は増えることはできず、豊作年にはかなりの種子が被食を免れるというわけだ。


『食べる速さの生態学 猿達の採食戦略』