nokatachi

2022/10/25 09:33


ライアン・ハニーマン

ティファニー・ジャナ

『B Corp ハンドブック』
 (鳥居希・矢代真也・若林恵 監訳 バリューブックス・パブリッシング 2022年)


高度経済成長期の日本では「社会建設」という言葉が広く認識されていた。皆がそれぞれの持ち場において「社会の建設」に携わっているという認識を持っていたというのなら、そこにおいて「賃金労働」や「ビジネス」は、子育てや介護を含めた市民活動と等しく立派に「パブリック」なものとみなされいたということにもなる。


ところが時代が降っていくとみんなで必死に作ってきた社会がそれなりの感性を見るようになってくると、今度は、経済は「作る」ことよりも「消費する」ことへと重心を移していくことになる。


仕事というものの面白さは、それを通じて日常の市民生活では遭遇しないような人と関わったり、それを通じて、一市民としては到底到底もたらし得ないようなインパクトを、一個人の生活の範疇ではもたらし得ない遠くの人にまでもたらしたりできるところにある。

その意味で、仕事は、常にパブリックな要素を含んでいるし、仕事がもたらす喜びというのもまた、そうした公共性や社会性によってもたらせるものでもあろう。そしてそれが人の生活様式や思考様式にまで多大な影響を及ぼすという意味で、本来極めて政治的なものでもあるはずだ。


重要なのは、見知らぬ仲間と出逢おうとする欲求が、新しいビジネスやこれまでと違ったビジネスを生み出すということなのだ。


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中沢新一

『対称性人類学』
 (講談社 2004年)


ジョルジュ・バタイユがおこなった試みは、経済活動の原点に「生産」ではなく「消費」を据えたことです。

人類が生産のための生産を行うようになったのは、ごく最近のことで、それ以前の3万年を超える長い歴史の中では、むしろ生産が作り出したものを盛大に消費するために、生産は行われたとうことです。

昔の人は、狩猟や生産で獲得した富を、ただいたずらに溜め込んだりするのでは悪であり、また自分が稼いだ利潤の全てを、次なる生産のためにまた注いでいくのは、恥ずべき吝嗇だと感じていたような節があります。

そこで王族も貴族も、たっぷり溜め込んだ富を、宗教的な祭儀や壮大な建築などに投入して、一気に、そして豪勢に消費してしまう機会を作り出そうとしていました。現在では儲けたお金は生産拡大のために回されるのが当たり前となっていますが、それ以前の社会では貯めた富を公共的に消費していました。


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網野善彦

『無縁・公界・楽』
 (平凡社 1996年)


公界の場に生きるためには、「芸能」を身に付けなければならなかった。

この属性は、時代を遡ると共に、一層鮮明になり、遍歴の範囲も、はるかに広くなってくる。中世前期、こうした人々は、多少ともこれを蔑視する視覚から「無縁の輩」とか、「遊手浮食」の徒とか言われることもあったが、多くはそれぞれの「芸能」を持って、天皇・神仏に奉仕する人々で、各々、独自な「道」を持つ「道々の輩」であった。


「道々」の人々は、多彩を極めている。「庭訓往来」などに見られる同様の「芸能民」を含めてみると、「道々の者」は海民・山民、各種手工業者、狭義の芸能民、知識人、勝負師、宗教人に一応、分類することができる。


鎌倉~室町期における「職人」の用例は多様であり、遅くとも南北朝期には、銅細工・白粉焼・紺屋などの手工業を指す言葉として使われてる。また「芸能」を「所芸」「職」とほぼ同意した使用例は、平安末期から見出されるところであり、神社に属する獅子舞・巫女・田楽・舞人なども「職掌人」と言われているので、さきの様に多様な「道々」の輩を、「職人」と称しても、当時の用例から大きく離れることはないであろう。


平安末から鎌倉~南北朝期にかけて、「職人」の特徴の一つは、広範囲にわたって遍歴するところに求められる。当時、農業と非農業とは、すでに大きく分化していたとはいえ、非農業的生産、手工業、狭義の芸能、商業等々は、まだ十分に分化しておらず、遍歴・行商は「職人」が生計を立てるために必須の条件だったのである。自ずと、「職人」にとって、関渡津泊、山野河海、市、宿の自由通行の保証は、いわば生活そのものの否応の要求であった。