nokatachi

2022/11/18 21:46


食べるの構成要素を探っている中で、山に入り植物の採集を行なってきた。また狩猟された猪を買っては調理をしてきた。皿の上に置かれた食材は自然から切り離され食卓へと並べられるように思う。

しかし、山のように目には見えない関係性の中へ、食べるの信頼を落とし込むことに「NOKATACHIの美味しい」があるので、関係性を切り離すことはできない。

この「関係性を切り離さない」という難問を下記の二つの文献から時間をかけて読み解いていこうと思う。


その前に現状の把握をしておきたい。

中沢新一の緑の資本論の文中に、産業資本主義の発達していきた近代になると人間の五感や直感の細部にまで、スタンダード化が浸透していくようになるとある。

それは例えば、ピアノの大量生産が要求する調律への一律化への要求に従って、いわゆる「十二音平均律」の完成を導き、いつの間にか「十二音平均律」による作曲や演奏だけが、唯一の音楽的創造であると考えられるまでになってしまったことを、明らかにしている(マックス・ウェーバー『音楽社会学』)


大まかな「近代」とは、なんだったのか。その他にも箇条書きではあるが調べた限り記載しておく。

ヨーロッパ人による大洋の征服は近代初めの歴史的大事件である。

その結果、他の諸大陸がヨーロッパ人の商業網に組み入れられた。

教会の諸規則は、中世において西ヨーロッパ全体の色に見られた統一性を形成する大きな要因となっていたが、宗教革命はそれを破壊し、料理が国ごとに多様化するのを促進した。

印刷技術の発展が文字文化の飛躍をもたらし、料理書の機能を変化させて、一部の国の料理の影響力を、他の国の料理を犠牲にして特別に強めた。

17世紀以降の化学の発展が、料理と栄養学の間の伝統的な関係を一時的に中断させた。


都市の拡大が自家消費型農業から市場農業への移行を推進し、促進し続けた。

農業技術と収穫高に重要な進歩がないまま人口が爆発的に増加したため、民衆の食における穀物の割合が増大するとともに、多くの食材が新たに階級づけし直された。

ヨーロッパ大陸の様々な国で、社会のエリート層による農地の獲得が、貴族とブルジョワの資産を拡大させ、ガストロノミーと食卓作法を洗練させるのに役立つ一方で、農民の栄養不足を悪化させた。



さらに、関係が切り離されたであろう「近代」を谷崎潤一郎の「陰影礼讃」で見ていく。

「我々、東洋人はなんでも無いところに陰翳を生ぜしめて、美を創造するのである。美は物体に宿るのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。」

モノは、意識の現象を生み出す根源的な力のことを表そうとしている。しかし、その根源的な力はハイデガーの言う「光」ではなく、いわば初めから柔らかい皮膚に包まれたモノなのだ。そしてその皮膚の表面は光と闇のマダラ状に混成系を成して陰影のうちから発散させている。


この発散させているのは「魅力」ではないかと考える。そのモノを食べたいという思いが、同一化へと繋がっていく。

なぜなら、谷崎は、食べる情景、そしてその体験を味覚だけではなく、音や光、色など五感全体で味わい、そのことに思いを巡らし「瞑想する」ものとして描写した。


さらに話を進めて、切り離されたであろう近代から、緩やかに切り離されていく時代へと遡ってみたいと思う。

それは16世紀の茶の湯を考えなくてはならない。

この頃、日本に新しい国家主義、すなわち独自のアイデンティティが生まれた。この茶の湯は借り物の文化的実践から日本独自のものへと移ったのだ。それは茶道の「和敬清寂」を利休が蘇らせたことを意味する。

そもそも茶は、紀元804年に日本人の僧侶が中国から持ち帰った。815年、その僧侶は茶を天皇に献上し、そこから日本における茶の伝統が始まった。しかし当時は中国からの新しい流行として上流階級に受け入れられた遊びとして興じられただけだった。



横道に逸れるが、「レストラン」を調べた。

1790年ごろのフランス革命の中から、現代的なレストランは現れた。パリで始まったもので、フランス人の発明とされている。

このフランス革命は中世のギルド制も終わらせた。

革命前1765年にパリで最初のレストランを開き、フランス語でrestaurant(レストラン)と呼ばれる健康回復スープを提供していた。

menu(ムニュ/メニュー)とは、大きな料理を小さく記述したので「小さい」という意味のフランス語だ。

18世紀のフランス人は、スープで食事を始めれば健康は回復すると信じていた。それは今でも慣習として広くみられる。



中沢新一

『緑の資本論』
 (集英社 2002年)


狩猟の過程は、鎮魂の過程とちょうど鏡面対象のような関係にある。鎮魂では、内包空間で充実しきった成長を遂げたタマが「かひ」の容器を破って、外気の中に物となって現れてくる。

ところが狩猟では、モノ(動物のからだ)の容器を破壊して、その中から森のタマを純粋な抽象形態で取り出して、人間たちが自分の体内に取り込むことで、幸福の感覚を味わっている。

..「モノとしての生命」という表現には、胡桃の硬い殻のような概念の内部に、複雑な構造と運動があるようだ。



山下正太郎 編集

『WORKSIGHT 17』
 (コクヨ株式会社 2022年)


昨今の倫理的ヴィーガニズムの代表的な主張に従えば、畜産動物の飼育や殺傷の苦痛を減らす観点から植物性の大替食を取ろうということになるが、植物には外から受けた傷の状況を内部で共有する仕組みがあるとも言われている。

そもそも植物は人間が地球で今の地位を得るよりも遥か昔からいる超越的な存在であり、人間はそのことをずっと感じてもいた。植物は、疫病や呪いといった見えない恐怖に対する魔除け、シャーマンによる先祖や神戸のコミュニケーションにおいて利用されてきた。

..植物や動物の、快/不快を考える新たな倫理的な枠組みとは。




次回は、近代というスタンダード化された時代をフィルターにして、中沢新一の「モノ/ある」を緑の資本論から学ぼうと思う。