nokatachi

2023/01/01 13:36

美味しいモノはどんなものか。

3年前に調べ始めた頃は、それは食べた人の、家庭の味(おふくろの味)なるモノ、文化的に食べ慣れているモノなどと説明している文献を見た。

しかし、その家庭の味(理想的なでもある)や、そこで扱われる文化では文脈として時間をどこまで遡れるのか明確ではない。

ここでは、著者の久保明教の「手作り」や「家庭料理」の範囲を記録させてもらい、1600年の茶の湯・懐石までの美味しいモノを検討する含みとしたい。


久保明教

『「家庭料理」という戦場』
 (コトニ社 2020年)


「白米を中心に和洋中の美味しい一汁三菜を女性(妻/母)が心を込めて手作りすることが家庭生活の潤滑油になる」という家庭料理の理念的なあり方は高度経済成長期(1950年代中盤~1970年代前半)に確立された。しかし、この時期はインスタントラーメンやダシの素といった家庭用加工食品のブームが次々と起こり、広範囲の食の簡易化が進められた時期でもある。


戦争が基点となり、戦中、戦後は昔ながらの家庭料理を満足に食べることができなかった歴史的に特殊な「家庭食断絶の世代」である。戦後に登場した家電、料理所、加工食品などを次々と取り入れ、自分の母親世代とは断絶した新しい食生活を実現してきた人々である。子育て期にこの尊重を重視する教育観の強い栄光を受けており、娘に家事や料理を教えることを回避する傾向が強いこと。


母親世代から娘世代への移行は、食の簡易化や「手作り」の崩壊という基本的な方向性において捉えられ、両世代の共通性(簡易化の肯定)と断絶(料理継承の拒否)が共にこの方向に食を進める要因とされる。


「食の簡易化」「手作りの重視」を念頭におきながら、戦後の主婦と戦前の母親世代の料理をめぐる関係性を考察する。


1940年ごろ島根県の山間地域では、家で食べる食料の大部分は、ありこちを開墾して増やした家の田畑で育てる。納屋の隣には鶏小屋があり、祖父の所有する山には野イチゴやシメジ、ワラビなどおやつやおかずになるものが生えている。村には八百屋や肉屋はなかったが困らなかった。

この世代の料理には「我が家の味」という表現は相応しくない。

毎日の食事は、その土地でその時期にとれる食材を用いた簡素なモノであり、食べる楽しみを提供するご馳走は村人が共にいただく行事食である。つまり、この時代の過程で食べられる料理とは村の味、共同体の味であり、世帯ごとに異なる「我が家の味」ではなかった。


高度経済成長期(1950年代中盤~1970年代前半)では、最新の調理機器、標準化された多様なレシピ、次々と発売される加工食品、それらを自分一人が掌握する台所に集結させ、組織化し、創意工夫しながら活用していくことで多彩な「手作り」料理は可能になる。「時間的にも経済的にもゆとりがあったこの頃の主婦には、毎日がご馳走のような食卓を整えてきた人が沢山いる」


そもそも「手作り」が自分の手で一から料理を作り上げることを意味するのであれば、素材を自ら調理したとしても、素材を動植物から育てること、そのために牧場や土壌を耕すこと、種や肥料、水や酸素を用意すること、それらを生み出す地球という惑星を作り出すことさえ必要になってしまう。あるいは逆に、少しでも人間が手を使って調理に関与した料理を「手作り」とするならば、幻灯工場で働く人々がベルトコンベアを流れる容器に手作業で中身をもりつけたコンビニ弁当も「手作り」だという事になる。


手作りの我が家の味とは、1940年代において地理的・社会的コンテクストに埋め込まれていた家庭料理が、流通や情報や器具の標準化を通じて脱埋め込み化され、誰でもどんな場所でも大体同じように調理することが可能になったからこそ生まれる差異であり、個性なのである。


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地理的・社会的コンテクストに埋め込まれていた家庭料理が、流通や情報や器具の標準化を通じて脱埋め込み化され。とあるが、この標準化も終わりを迎え、個性が一つではなく複数ある個人としての美味しいが何かも検討してみたい。

それは、同じ地域で育った男女がお見合いで結婚することが一般的だった頃とは違って、出身地が異なる夫婦の食文化も、洋食や中華の新しい味は好都合ではあった。お互いの好みの味を擦り合わせながら、新しい家族の味を築き上げていくことを土台として1940年→1970年へと美味しいが変容していくことが見てとれるはずだ。


しかし、料理の評価軸の「美味しい」はあまりにも抽象的すぎると思っている。良い様に解釈できるので言われたら嬉しいが、岩手県沿岸部などの一部地域に用いられる方言で「くるみあじ」がある。これは、クルミの様に「なんとも言われないほど良い味」の意だそうだ。個人的には「くるみあじ」のような表現に共感したい。