nokatachi

2023/01/08 09:23


1. 題名

「モノを食べる」の文脈


2. 要旨

食べるの構成要素を見直して分かってきたモノを食べるという行為の意味は、歴史のどの文脈を辿るのかを文献から調べ引用を用いてまとめる。

目には見えないモノを食の歴史から立ち上がらせることで、それは儀礼食、茶の湯、家庭料理へと変化しながらも美味しいの像を浮かび上がらせる。


自然や動植物の脅威から集団を維持していくなどの為に、今でも各地に残っている儀礼食の足跡を辿り近代前の茶の湯にこの文脈の分岐点を捉える。

そこから離れた人が作る美味しい思い出でもあるハレの日のご馳走としての儀礼食が、家庭料理にどの様に組み込まれ、近代以降の産業社会から家族を守ってきたのかを手作りや、安心/静寂といった視点で切り取る。


3. 目次
『山』
『近代』『資本』


4. 序論

モノを食べるの序論と同じ。

※引用している文章はゴシック体で記載


近代以降は標準化されたことで、日本の食文化とヨーロッパとアメリカ等の食の歴史が入り混じりっているので別途触れるが、日本の食文化からモノを捉えることに変わりはない。

今後は「近代」と「資本」の時代をもとに「山」の時代の儀礼を深く関連付けていく課題が残った。


5. 方法

はじめに、儀礼/モノ/現代の自然環境と人の関係、が文献に簡潔にまとめられているので引用する。

儀礼を通し神霊との間に贈与交換関係を作り出すことで不可視の野生の領域を在らしめつつ、自らをそのような関係性の中にある「人」として形作るのである。

モノには贈り主の人格や霊が付与されており、個人が完全に所有することはできない。モノはむしろ贈与に関わるものたちに「与える、受け取る、送り返す」という社会的義務を課す。人間もまたものを媒介とすることで生まれた他者との関係の中で生きて行く事になる。

21世紀に入って「人新世」という概念が普及し、人類の活動の全地球的影響が共通認識となるにつれ、地球環境に対する人類の影響や責任といった形で「人間」を平準化して捉える傾向が強まっている。しかし人間を均一化すると人種やジェンダーなどの人間社会の複雑な諸問題が見えなくなってくる。

「奥野克己・石倉敏明(編) (2018年)『Lexicon 現代人類学』以文社」


さらに、ヴェレリーの創造行為から手作りを見て、儀礼食から茶の湯、家庭料理へと当時の生活環境を考慮しながら時間を引き寄せる。


1900年フランスの小説家ヴァレリーの創造行為

「書く」とは「自分に向かって言う」ことに他ならず、つまり外に出す=表現すると言う本来は社会的側面を持つはずの行為が、自意識内部の二重化の問題として捉えられてきた経緯がある。

言葉を使用する行為が不可避的に顕在化される主体の分裂は、身体を場として起こるものだが、しかし他方で身体こそが、変化するものの基盤にある不変の物体として、私の存在を一つにまとめるものでもあるのだ。

作品が社会に流通して読者の元に届くと言う事実にヴェレリーは自らの創造性を、この創造以降のプロセスにかけていた。別の言い方をすればヴェレリーの創造行為は、書くと言う競技の想像が終わった後の過程をも含むと考えるべきだ。創造後の創造。作品によって身体を「解剖」すること。「伊藤亜紗(2021年)『ヴァレリー芸術と身体の哲学』講談社学術文庫」


1940年代日本の手作りの家庭料理

手作りの我が家の味とは、1940年代において地理的・社会的コンテクストに埋め込まれていた家庭料理が、流通や情報や器具の標準化を通じて脱埋め込み化され、誰でもどんな場所でも大体同じように調理することが可能になったからこそ生まれる差異であり、個性なのである。

高度経済成長期(1950年代中盤~1970年代前半)では、最新の調理機器、標準化された多様なレシピ、次々と発売される加工食品、それらを自分一人が掌握する台所に集結させ、組織化し、創意工夫しながら活用していくことで多彩な「手作り」料理は可能になる。「時間的にも経済的にもゆとりがあったこの頃の主婦には、毎日がご馳走のような食卓を整えてきた人が沢山いる」

「久保明教 (2020)『家庭料理という戦場』コトニ社


【山】儀礼食

鹿踊は盆の日に山から下りてきてホトケの供養をする「神秘の来訪者」と規定している。この言説は、シシ踊りの成り立ちを考える上で大変重要である。野生動物である鹿と人間が実際に暮らしの中でどう関わってきたのか、鹿の不思議な習性を人間がどう受け止めてきたのかという視点で、改めてシシ踊りの真相やそこに潜む民俗心意を探求することが求められる。

シシ踊りは「庭」という青竹が立てられた神域で踊られる。青森県の「山越え」という演目がある。山は動物の住み方であり、その住み心地の良し悪しは生命と種族の維持に大きく関わる問題である。それほど山は大切である。そのことを人間が動物の側に立って切実に、そして親和的に演じている。

アイヌの熊祭りも世界の初原的同一性の場を生み出す装置として、自己の帰属性を再確認する。「引用文献 煎本孝『アイヌの熊祭り』(雄山閣 2010年)」


「魚の女房」と題された昔話は、骨格としては動物恩恵譚である。これは食の根元に関わるテーマが挿入されていることに向かう。女は魚の化身であった方「自分の尻を浸し、尻をヤッサに洗って」というのは、干した魚を味噌汁の出汁として使っている姿ではなかったか。女による味噌汁の「作り方」こそが、忌避の対象にされている。いわば、自然のものを文化の側に引き寄せる料理という行為の中に、タブーが潜んでいるのではなかったか。そこには避けがたく野生の獣や魚貝から命を奪うプロセスが含まれている。「赤坂憲雄 (2017).『性食考』岩波書店,183-234」


当時の生活環境

更新世の末期には、寒冷な氷期から温暖な間氷期に移行する大きな変化が認められている。すなわち、この変化により日本列島の食性は、森林が針葉樹林から広葉樹林に移り変わるなどの大転換がなった。それに伴い動物も自身のニッチ(生態的地位)の適合のために移動したはずである。

ニッチとは、端的に言えば自然環境の中で、他の生物との関係において、どこで何を食べて適応していくかといった生活のあり方である。それは種の進化の身体的特質に基づく行動で定まる。

ニッチを作るために「火」を道具として使用し、野焼き、山焼きをした。樹木は焼かれて草原(疎林)になる。そこには食糧として良好なワラビもある。野焼き・山焼きによる草原の形成は、食糧となる多様な植物を生育させ、より安定した生活を可能にしたはずである。 

日本の表土の最上部にあるクロボク土は、火山灰ではなく微粒炭が腐食の保持に関与したもので、その微粒炭は縄文期の野焼き・山焼きで発生したことを導いた。この野焼き・山焼きは、縄文人のニッチ(生活空間と食料)の確保のための草原(疎林)作りであったと考えた。こうした人為的なニッチ作りは、人が自然を変える第一歩でもあった。縄文時代の自然の改変は台地や丘陵地の一部にとどまったが、弥生時代からは低地にも及んだ。「山野井徹 (2015)『日本の土』築地書館」


【近代】茶の湯

利休が手段として用いた茶の湯は「侘び」の一貫性にあったように思う。これは殻のような空間等の内部でタマが成長を遂げていく、内包的強度を充実させる遊びだったのではないかと考えている。それは日本人のウチとソトの区別意識が大きく働いていたと考えられる。


日本料理史の中で画期的な位置を占める特徴は、メッセージ性あるいは趣向という点を料理に加えたことであるようだ。それは季節感だったり祝いの心だったりである。このような懐石の特質を、趣向の面白さという点で引き継いで行ったのが日本の料理文化である。

16世紀の茶の湯を考える。

この頃、日本に新しい国家主義、すなわち独自のアイデンティティが生まれた。この茶の湯は借り物の文化的実践から日本独自のものへと移ったのだ。それは茶道の「和敬清寂」を利休が蘇らせたことを意味する。


1200年頃の鎌倉時代には禅僧の道元が典座教訓を表した。

それは、食べ物を用意し、それを食べることが、人間にとってどのような意味があるのか。そのことを人間お存在そのものの中において考えてみようとした。

その中で道元は、禅林においては食事を用意する役である典座は重要な役であり、食材を集め料理すること、それ自体が坐禅と変わらぬ「行」であると明確に述べた。


茶の湯料理のことを懐石という。

懐石料理という場合は、茶の湯を離れて料理だけが出される料理屋料理となった時である。これは懐石風料理ということだ。現代の懐石料理は宴会料理であるから、飯・汁は料理の最後に出る。しかし、茶会の懐石では最初に出る。

懐石は懐に石と書くが、これは禅語の温石(おんじゃく)という言葉があり、修行中のひもじさに耐えるために温めた石を懐にするという意味がある。ここで言う腹を温めるというのは、腹の虫を抑えることである。

千利休が活躍する16世紀になってくると、他の宴会料理と茶の湯の料理を区別しようという意識が生まれてくる。

いわゆるわび茶の感性は、料理の内容に至るまでわびという美意識で貫き、新しい料理のスタイルを想像したのである。


この懐石は、暖かくて十分に調理された料理が適当なタイミングで客の前に運ばれる順序を持った料理である。次に、全て食べ切れる料理であり、量が適切であること、食べられない飾りなどがつかないこと。そして料理に託された強いメッセージ性である。


この懐石という日本料理史の中で画期的な位置を占める特徴は、メッセージ性あるいは趣向という点を料理に加えたことであるようだ。それは季節感だったり祝いの心だったりである。このような懐石の特質を、趣向の面白さという点で引き継いで行ったのが日本の料理文化である。「熊倉功夫 (2007)『日本料理の歴史』吉川弘分館 


当時の生活環境

獣肉に限らず日本独特の肉食の禁忌習俗があった。

例えば、鶏は「庭」の鳥、つまりミウチの鳥なのである。これは20世紀担っても、鶏を食べる時は、家の鶏ではなく他家の鶏と交換して食べた、という報告がある。

うちにある鳥獣、すなわち鶏や牛・馬・犬・猫などは「ミウチ」であるために食べないが、野にある野鳥・猪・狸などなどはソトの存在であるがために食用して一向に差し支えがなかったのだろう。いつから鶏を食べるようになったのかというと、江戸時代以降である。それは南蛮(ポルトガル)の影響だろう。外国人が卵や鶏肉を食べるのを見て、にわかに日本人も食べ始める。「熊倉功夫 (2007)『日本料理の歴史』吉川弘分館 


日本中世の職人の立場も、平安末から鎌倉~南北朝期にかけて、「職人」の特徴の一つは、広範囲にわたって遍歴するところに求められる。

当時、農業と非農業とは、すでに大きく分化していたとはいえ、非農業的生産、手工業、狭義の芸能、商業等々は、まだ十分に分化しておらず、遍歴・行商は「職人」が生計を立てるために必須の条件だったのである。

自ずと、「職人」にとって、関渡津泊、山野河海、市、宿の自由通行の保証は、いわば生活そのものの否応の要求であった。「網野善彦 (1996)『無縁・公界・楽』平凡社


産業資本主義の発達していきた近代になると人間の五感や直感の細部にまで、標準化が浸透していくようになる。


【資本】家庭料理

1940年ごろ島根県の山間地域では、家で食べる食料の大部分は、ありこちを開墾して増やした家の田畑で育てる。納屋の隣には鶏小屋があり、祖父の所有する山には野イチゴやシメジ、ワラビなどおやつやおかずになるものが生えている。村には八百屋や肉屋はなかったが困らなかった。

この世代の料理には「我が家の味」という表現は相応しくない。

毎日の食事は、その土地でその時期にとれる食材を用いた簡素なモノであり、食べる楽しみを提供するご馳走は村人が共にいただく行事食である。つまり、この時代の過程で食べられる料理とは村の味、共同体の味であり、世帯ごとに異なる「我が家の味」ではなかった。


同じ地域で育った男女がお見合いで結婚することが一般的だった頃とは違って、出身地が異なる夫婦の食文化も、洋食や中華の新しい味は好都合ではあった。お互いの好みの味を擦り合わせながら、新しい家族の味を築き上げていくことを土台として1940年→1970年へと美味しいが変容していくことが見てとれるはずだ。

「白米を中心に和洋中の美味しい一汁三菜を女性(妻/母)が心を込めて手作りすることが家庭生活の潤滑油になる」という家庭料理の理念的なあり方は高度経済成長期(1950年代中盤~1970年代前半)に確立された。しかし、この時期はインスタントラーメンやダシの素といった家庭用加工食品のブームが次々と起こり、広範囲の食の簡易化が進められた時期でもある。


「食の簡易化」「手作りの重視」を念頭におきながら、戦後の主婦と戦前の母親世代の料理をめぐる関係性を考察する。

戦争が基点となり、戦中、戦後は昔ながらの家庭料理を満足に食べることができなかった歴史的に特殊な「家庭食断絶の世代」である。戦後に登場した家電、料理所、加工食品などを次々と取り入れ、自分の母親世代とは断絶した新しい食生活を実現してきた人々である。子育て期にこの尊重を重視する教育観の強い栄光を受けており、娘に家事や料理を教えることを回避する傾向が強いこと。

母親世代から娘世代への移行は、食の簡易化や「手作り」の崩壊という基本的な方向性において捉えられ、両世代の共通性(簡易化の肯定)と断絶(料理継承の拒否)が共にこの方向に食を進める要因とされる。「久保明教 (2020)『家庭料理という戦場』コトニ社


当時の生活環境

高度経済成長期の日本では「社会建設」という言葉が広く認識されていた。皆がそれぞれの持ち場において「社会の建設」に携わっているという認識を持っていたというのなら、そこにおいて「賃金労働」や「ビジネス」は、子育てや介護を含めた市民活動と等しく立派に「パブリック」なものとみなされいたということにもなる。

ところが時代が降っていくとみんなで必死に作ってきた社会がそれなりの感性を見るようになってくると、今度は、経済は「作る」ことよりも「消費する」ことへと重心を移していくことになる。「ライアン・ハニーマン ティファニー・ジャナ  (2022)『B Corp ハンドブック』鳥居希・矢代真也・若林恵 監訳 バリューブックス・パブリッシング


19世紀に入り、科学と産業とが密接に結びつき、科学技術や関連知識は急速に拡大していった。

大量生産・大量消費時代を迎えた19世紀末以降の色彩科学の発展は、ニュートンが解明したような色のメカニズムをさらに進展させ、色を数値化し測定する手法も開発された。食品をはじめとした多くの産業で、色を利用した新しい商品開発やマーケティングが進められた。つまり色の商業利用が拡大し、人々の視覚環境が変化した時期でもあった。

食品の買い物のオンライン化は、20世紀半ば以降広まった食料品店のセルフサービス化がもたらした変化と同様の、またはそれ以上の新しい消費形態だと言えるだろう。

例えば、スーパーマーケットは、新鮮さや美味しさを視覚的に表現し、消費者の目に訴える新たな視覚性を構築と共に発展してきた。商品の陳列や店内照明、冷蔵ケース、包装容器などさまざまな技術や方法を駆使して、スーパーマーケットの美学とも言える新鮮さの視覚化が行われてきた。

SNSの写真においては「加工」「共有」「いいね」することが重要となったのだ。この撮影から共有までの一連の操作は、被写体への態度も変化さえた。SNSの写真には、日常の記録や思い出の保存というだけではなく、むしろそれ以上に、ユニークな見た目であることが求められる。それはSNS写真独特の美学である。

ここで重要なのは、ある色、見た目が逸脱であると認識するには、何がオリジナルかを知っている必要があるということだ。つまり19世紀末以降の食べ物の色の構築の上に成り立つものであり、色の標準化や人工的に作られた自然な色という概念をある意味でより強固にするものだとも言える。「久野愛 (2021)『視覚化する味覚』岩波新書


6. 結果

7. 考察・結論

8. 引用文献

久保明教 (2020)『家庭料理という戦場』コトニ社

ライアン・ハニーマン ティファニー・ジャナ  (2022)『B Corp ハンドブック』鳥居希・矢代真也・若林恵 監訳 バリューブックス・パブリッシング

山野井徹 (2015)『日本の土』築地書館

久野愛 (2021)『視覚化する味覚』岩波新書

網野善彦 (1996)『無縁・公界・楽』平凡社

熊倉功夫 (2007)『日本料理の歴史』吉川弘分館 

https://www.nokatachi.info/blog/2023/01/08/092236 別途『ヨーロッパとアメリカの近代(ガストロミー)~資本(ダイエット)の歴史』