nokatachi

2023/02/04 22:28





・はじめに

アスパラガス農家に冬仕事はない。

ここ数年は知人の仕事を手伝いながら食い扶持を繋いでいる。

根無草で生活をしていると、所々で世話になった知り合いが増えていく。

そうすると、春になってアスパラガスを収穫したらお裾分けに送るのが楽しみになっている。


紀元前30年の農耕詩がある。これは農業について歌ったものである。

この著者は山羊の炙り焼きをこの上なく楽しんでいた。

著作は良きものを楽しみつつ人生を過ごすということが、もてはやされていた時代のものだ。

食物と友情は「汝自身を知れ」に勝る。

自分のことはわからない。自分が食べている物を友人と見ればそれが私だと解釈している。

火が食べられる物の可能な範囲を広げてくれた。


人類学者のレヴィーストロースの論文「料理の三角形」で、料理された食物についての理論を入念に練り上げ「焼いたものは自然に属し、煮たものは文化の側に属していると言える」と書いてある。煮るには容器、つまり文化の産物が必要だからだ。

何千年もの間人類は食物を生で食べていた。それから火を起こすことを覚え、ネアンデルタール人が出現するまでの間に料理を始めた。

どのように始まったとしても、火を使って料理をすることは革命的だった。

それまで食べられなかったものが食べられるようになったからである。

料理されて初めて食べられるものがその時から栽培されるようになった。

クロード・レヴィ=ストロース  1990年『やきもち焼きの土器つくり』みすず書房

ウィリアム・シットウェル 2016年『食の歴史』柳風舎


私たちはどこで何を食べているのか。

食べるまでには、「採集/収穫」「解体/素材を食材に変える」「保存」「調理」「食卓」の段階がある。

それは文化によって異なり、この段階を共有できるモノが文化になる。大きくは環境に起因する食べ物によって決まる。

そしてヒトは、食べ物の根となり種となり移動をする。



自己紹介の代わりに。


学生の頃は建築士を志していた。

埼玉県の住宅街で暮らしていた頃。小学生の夏休みの自由研究では図鑑で見た縄文の鏃を真似て作ってみたことがあった。

出来は散々だったが今思い返せるということは何か強烈な経験だったように思える。

実家が家庭菜園をしていたので食卓には旬な野菜があった。特に秋ナスの甘味噌焼きは美味しかった。

それから京都府の建築の大学に進んだ私は勉強の傍ら、寺や町家の散策や茶席、陶芸などいわゆる京都らしい事もした。

京都のスーパーマーケットに売っていたパックの白だしが美味しくて重宝した。

牛蒡を白だしで炒めて卵でとじた料理で、仕上げにセリや京野菜をのせて食べていた。

卒業と同時に建築士の資格を取り、茨城県の建築メーカーに就職をした。

休日は近所のフランス人が営んでいる個人経営店のパン屋に買いに行くのが楽しみだった。

朝七時からオープンする店のドアを開けると、焼きたての香ばしい香りが迎えてくれた。


仕事に慣れ始めた頃。

陶芸をしてみようと近くの窯元を訪ねた。

そこは陶芸教室をやっていて、他に一回り以上年上の女性が3名いた。

先生は60歳前後の女性の陶芸家で力強い器を作る。

陶芸の形の作り方を教えてもらったのは、五手で酒器を作るだとか、器を歪めたくても軸は取りなさいなど、器の部位で腹、肩、首、口といった用語に対しての形のあり方はだった。

週に1回行って、みんなで作って、土が乾くまでの間お昼をみんなで食べて、午後土の乾燥具合を見て成形を進めていく。

お昼は弁当やお菓子を持ち寄って、筑波山や田園が見える見晴らしのいい景色を眺めながら欅の一枚板をテーブルに楽しく食べた。

時々、山の麓に位置する作業場の付近を散策して、花器に生ける植物をそこの植生から教えてもらったりもしたり、剥き出しになった山肌に陶土をあてて写し取って陶板にする作業も見て教えてもらった。

そうして出来上がった器たちを窯に入れて薪をくべて焚いた。


窯は登窯で穴窯と比べると小さい。

二日間で完成させるのだが、塩とお酒を窯に置いてから始める。

最初は素焼きも兼ねて600度まではガスバーナーで火を送り込む。

その後、温度を一定に上昇させていくべく、薪を4本から5本,6本へと増やしながら上げる。作品を焚くというよりも窯全体を焚かなければならない。温度が狙った通りに上がれば良いわけでもなく、熱量(カロリー)が大事でもある。

窯の中の酸素状態を気にしながら、空気が無いと還元状態、あると酸化状態となり土の感じが変わる。

交互に土を変化させるとそれが層になり、土の感じに深みが増すと教わった。1000度以降は窯が鳴る。

その時には夜中になっている。煙突からの火柱と山の麓から見る星空、窯鳴のゴーと言う音は、とても素敵な瞬間だった。

そういった場面で、代わるがわる交代しながら火の番をするのだが、そこで鍋をつつきながら色々と教わることが楽しかった。

何度かそういった経験を経て、茨城県を離れ山形県へ移住することになる。



日本では1万2000年前頃に土器が見つかる。ここにはドングリの「おこげ」が付着していて、それは当時暖温帯落葉樹林や照葉樹林の森だった森の育んだ木のみだった。

それを煮て灰汁抜きをし、土器は森を食料庫に変える「第二の胃袋」となった。

人類最古の土器はシベリア半島で1万3000年前頃のようだ。この当時は日本列島とまだ陸続きであった。1万年前頃はシベリア平原の親戚たちは動物を飼いならす放牧という知恵を身につけ海獣狩猟に乗り出した。中国長江流域では栽培イネの痕跡がある。

では日本列島で培ったものとは。シベリアの最古の土器と日本の最古の土器を比べると厚みが違く「日本の方が薄い」のである。それは煮炊きのための土器であった。この土器の成分を顕微鏡で検証したところ砂と動物の毛を混ぜていることがわかった。砂は耐熱性向上、動物の毛は整形する時の型持ちの向上である。

千葉県に遠部台遺跡というのがある。そこは掘るととにかく一面土器だらけの空間なのである。ここは土器塚(かわらけづか)と呼ばれていた。おそらく当時の時最大の生産地であった。面白いのは、祖先たちが壊れた土器をただ捨てるのではなく、供養するかの如く安置していること。土器を単なる道具以上のものとしていたのかもしれない。そこからさらに5000年すぎると芸術性が出てくる。福井県ではベンガラを使った彩色の土器も発見された。

NHKスペシャル  2001年『日本人はるかな旅』NHK出版  



まだ茨城県の住宅メーカーで働いている時。

木を扱っているのに何にも知らないと思い、静岡県の林業家と建築士が開催してるワークショップに参加した。

そこでは山に入りガタガタの道を車で進んだの。待っていたのは横たわった大きな杉の木。みんなで声を合わせて皮を剥く。その後は古民家を改修した設計事務所に集まって座学をした。

終わって、泊まる場所が決まっていなかったのでそのまま事務所に泊まらせてもらい、座布団を引いて毛布だけ貸してもらい寝た。朝になって雨戸を開けて日差しが室内に入る感じが気持ちよかった。夜の座学の時の裸電球の暖かい灯の下で10人ぐらいが肩を寄せあって畳の上に座って話を聞いたり話したりするのも不思議な感じだった。

その後の夏頃に栃木県で古民家の実寸をするということで同行させてもらう。昔は一尺という決まった寸法はなくて一つの木の棒を基準に設計したなどを聞きながら進めた。家主の方が休憩の時に出してくれた和菓子が涼しげでとても美味しかった。


そして住宅メーカーを辞め、茨城県の住宅設計事務所に入る。

お客さんとのプラン打ち合わせ、設計、現場管理をする。

その1棟がキッチンからリビング、その吹き抜けから2階の子供室まで繋がるプランだった。

断熱と機密にこだわり、鉄骨階段と鉄製の手摺、大きな吹き抜けがある住まいだった。

東日本大震災の翌々年ぐらいだったので、奥様は震災当時、部屋では怖くて眠れず車で寝起きするぐらいだった。そのためにオール電化が光熱費にするとお得だったが、停電の心配をしてキッチンはガス火になった。キッチンの前には建具屋さんに作ってもらった丸いダイニングテーブルが置かれ、子供たちがそこで勉強をする。そんな暮らしを想定した。

他にも、所長や先輩の打ち合わせに参加させてもらった時に、印象深かったのは奥様がプランを話すときは総じてキッチンと子供たちの話だった。

所長の建築仲間にカフェ兼設計事務所を営んでいる人もいたり、他の事務所では月に一度は事務所で昼ごはんを作ってみんなで食べる話を聞いて、段々と建築と食に興味が移っていく。

そして町の中にある食堂というキッチンの役割を建築的に考えて実行したくなった。


築80年の小屋を借りて、内装をDIYして食堂を開いた。

老若男女が好きなハンバーグをメインにした。産直で野菜を買い沢山の料理を作った。

他人が求める美味しい料理を作ることに忙殺されていった。

自己表現の為に料理を作っていたので、今思うとサービス業としての飲食店を理解していなかった。

どこで何を食べているのか。ということがズレて上っ面だけの料理名やこだわった気でいた食材を使って、お洒落な店内でお洒落なだけのメニューを作るだけになっていた。

そして、どうやったらお客さんに評価されるかが焦点となった。

さらに、人口8000人の高齢者が多い誰も知らない町での人付き合いは想像以上に骨が折れた。

近所の人やその区の会合、隣組の集まりなど店をやっているからこそ、顔を出して知ってもらわなければいけないと思い、地域のイベントごとには足を運んだ。顔が知れて縁が繋がり町の人たちが店へ足を運んでくれたが、まだまだ未熟だった自分が提供したい事と、地域の人が求めるお店の需要と供給の意識や価値観の差があることすら分かってなかった。

少しつづてはあるがなるべく地域の需要を聞きながら、お店の方向を変えて行ったことが辛かった。

そんな中でも野菜を自然農法で育てている農家さんに出会えたのは大きかった。季節によって採れる野菜を使わせてもらった。

そのおかげでお客さんには野菜の美味しいお店とも言われていた様だが、当時の私には洋食ともなんちゃってフランチとも見分けのつかない料理の手法しか幅はなく。土から食べてくれる人へ繋げる考えを持たなかった。

そして3年やって辞めた。ただただとても大変だった。


その後、勧められて食材の採集をするようになる。

近くの山へ友人に連れて行ってもらった。

とても気持ちが良かった。最初は少しづつ私を取り戻していく作業のように山に入っていった。

特にクロモジに出会えた事は嬉しかった。


そして実家の農業を手伝っているうちに農家になっていた。

畑があるのは山形県の北東部。

山形県は以前、日本海側の秋田から山形、新潟の北部あたりや山間部にかけては、戦後間もない時期まで、カノと呼ばれる焼畑でソバやカブを作り、それを常食にしていたようだ。

山の田圃を耕し、山菜・きのこ・木の実を採集し、冬の雪に埋もれた季節になると、猟銃をかかえて山に入り、山鳥や野兎を捕り、雪解けの季節には熊を狩る。そんな歴史がある地域だった。

そして現在ここはアスパラガスが特産の地である。

車で山形市からは3時間ほど北上し山間を抜けていくと、途中の山には山菜やキノコがあるので時期になると山に入る。山菜は天ぷらにする事が多い。


盆過ぎに山形県天童市の鹿踊りを見てきた。

獅子頭の霊物視は狩猟時代の動物の祀り方に繋がっていくという見方がある。

古来、人間の野獣に対する観念には重層性があったと考えられていて、一つは、狩猟時代以来の毛皮や食肉提供に関わる野獣への感謝の念、聖獣感、又は殺生への供養観念。もう一つは、農耕開始以降に作物を荒らす害獣への怖れと怒りであり、鹿や猪を駆逐または服従させたいとする観念である。

それに、自分が食べて出したものは次の分解者の食べ物でもある。

つまり私たちの誰もが、世界に漂う一本の綱の一部、長くて緩やかな時間のかかるプロセスの一部に過ぎない。つまり食べモノは何か繋がりあっていて、それを離すと均衡が崩れるからそれを収める必要がある。と言うのを文献で読んだ。

8月22日に河上神社境内の夜に行われた7頭の鹿踊りは迫力があった。灯籠の淡い灯火に獅子頭が幻想的に照らされる。

演目が終了し獅子頭を脱いだ演者の顔はとても澄み切っていて、見学の子ども達からはヒーローのように話しかけられていた。


大晦日に知り合いから誘ってもらい山形県鶴岡市、出羽三山の松例祭に参加させてもらった。

年配の方や長く連続して参加されている方々は型として身に付き共同体として成っている様だったが、そこでは参加者が少なく私のような外の者が入っていい事になっていた。私は屋内で薪火が燃え盛る部屋で日本酒をついでいた。そこで食べたトンブリのおにぎりが美味しかったが、煙が凄くて立っている場所が風下だと息ができないほどだった。

一番びっくりしたのは、大松明引きだ。上半身はサラシを巻いて火のついたツツガムシの綱を引いて走ったことだ。この時の遅速と、火の燃具合で翌年の豊作や大漁を占う。

そして最後には火の打ち替え神事がある。新しい年の新しい火を鑽り出す。


春先に堆肥を作る。

牛糞と籾殻、米糠を混ぜる。

発酵して温かくなる。そこにカブトムシの昆虫や虫、菌が住み着く。それを畑に撒く。

そうするとミミズが増え、ネズミ、モグラが来て、タヌキも来る。空にはトンビだか鷹がクルクルと回って獲物を探している。そんな中で土に膝をついて、座って草を取る。アスパラガスや野菜を収穫する。

春~秋には父と作業をして、収穫時には4人の方に手伝いをしてもらっている。

畑仕事の時に気をつけるのは熱中症だ。麦わら帽をかぶって陽射しを避ける。

それでも土は暑かったり、温かったり、ちょっと掘るとひんやり涼しかったりする。


実家がアスパラガス農家をしている。アスパラガスは肥やしが沢山いると言われている。

1年間の周期で、春には土を慣らし、収穫、夏に生育、秋に刈り取り、冬は根株が冬眠となる。

春になると籾殻くん炭や苦土石灰を撒いて酸化した土を中和させてから、近くの牛舎からもらった牛糞を肥やしにする。畑は山間に位置して風が強い。夏前に立茎といってアスパラガスが伸びて葉をつけるので、それが倒れないようにネットを張る。

出芽から収穫までは7日前後で、単純積算温度は126度である。春採りは出たら取るを繰り返すが、立茎後の夏採りは伸ばすために取らない個体を決めながら収穫する。その間の下っ葉かきと草むしりが一苦労なのだ。秋に立茎した茎が枯れるのでそれを刈り取る。冬は土の中で春が来るまで冬眠状態となる。根株の寿命が15年間ぐらいなので、この期間これが環境に作用しながら続く。

アスパラガスのように、NOKATACHIの取り組みも15年一区切りで行っていきたい。