nokatachi

2023/02/11 08:40


・第1章 対象と方法

私たちはどこで何を食べているのか。

人は一本のチューブである。芸術人類学者の石倉敏明氏の内蔵と外蔵と言う考えがある。

岩手県沿岸部では「くるみ味」が美味しいの方言になっていた地域がある。ムラという集合体が一つの主観で存在していた頃は、味覚に具体性と共通性があった。確かに、人の手で育てられた食材よりも自然環境の中で逞しく育った食材には山グルミの様な地味深さがある。


食べるまでには、「採集/収穫」「解体/素材を食材に変える」「保存」「調理」「食卓」の段階がある。

これらを山間に暮らす農家の食を手法に立ち上げ直したい。


食堂屋をしていた時に得た経験だが、抱え込む様な縁ばかりも疲れる。そういうのは手放していきたい。

自分で手間をなるべくかけることなく、何かに手間をかけてもらうことで、それとの縁が自分から切れる。

これは、建築の分野から飲食の分野へ渡り、自己表現として料理を作っていた私がそこでの挫折を経て、私—食—場所へと消えて無くなりたい欲求への記録でもある。


第2章「採集/収穫」では、山に入りクロモジや山菜、キノコを採取した。食材を人の手で育て収穫、買うこと以外の手段で食べれる物を探してみる。暗黙的に信用している安心安全の食市場から離れる。友人や書物、先人の教えに習って、さらに口に含んで身体にも聞いてみる。そうすることで少しづつ食域を広げていく。


第3章「調理」では、今までやってきたことを元に土→食材→調理→お皿→食べる→人までを繋げる。

食材が土に還るまでの段階を分解してみる。

土→食材→調理→お皿→食べる→人→排泄→土

これを一気通貫させると別の美味しさが立ち上がってくる。

埼玉県で畑の土を使った陶芸の野焼きがあるのでその火を使う。

30名を超える人数が各々分担しながら3時間の調理を試みる。枝を切ったり、粘土を捏ねたりしながら屋内のキッチンにはない調理プロセスを踏みながらその場と集まった人とどのような関係が築かれていくのか行う。

テーブルを挟んで料理人とお客の関係ではなく、一緒に作って食べることをする。


第4章「解体/素材を食材に変える」では、自身の畑に戻りアースオーブンの日干しレンガを作るところから試みる。

太陽の熱エネルギーで田んぼの土を日干しレンガにする。それを窯にして薪や石を加熱してみる。

陽→火→熱→食材へと変換される過程を体験する。

畑に焼き場を設けて、そこで採れる野菜で保存加工や調理をする。


第5章「保存」では、暮らす地で採れる山の食材やアスパラガスを太陽の熱や火を使って保存加工する。

採取収穫した際に必ず出る端材を乾燥させ、出汁節に仕立てる。



・第2章 調査内容

人に食べられる為に成ったわけでも、育てられたわけでもない食材はなぜか美味しい。

毎年生えるヤマドリタケモドキというキノコがある。イタリアのキノコでポルチーニと近似種でとても美味しい。軸に編み目の跡がありイグチ系の一種でもある。友人に山のことを教えてもらい毎年時期を見て採りに行っている。オイル漬けや乾燥保存してイベントで料理をするときに出汁やソースに使う。地面からニョキッと生えているキノコを発見すると気分が上がる。それを摘んで採る時にまた何とも言えぬ気持ちよさがある。

籠に入れたキノコの香りが手に残る。ちょっとキノコっぽくなって山を徘徊する。


初めは、辞典を片手にしていても口には出来なかった。正直な話、山菜すらあまり食べてこなかった。

ベットタウンに生まれサラリーマン家庭で育った私は食材は買う物だと思っていた。実家が家庭菜園をしていたがそれすらも種を買ってわざわざ育てたのも食べる程度にしか考えていなかった。

なので、食堂屋を辞めて山に入った当初は山の食材はお金が落ちてるような感覚だった。現状に嫌気が差していなかったらわざわざ山に入るなんてしなかったと思う。


茶席で和菓子を食べる際に出てくる爪楊枝として使われるクロモジを山で採取しても、葉っぱであり枝でしかなかった。

それが自ら山に入り枝を切り車に積んで運転していると香りが車中に広がってだんだんと好きになっていく。

お茶から始まり、発酵や焙煎を試していくうちにクロモジの扱い方がわかってくる。扱っているときにこれも出来るんじゃないかと試したいことが出始める。それを繰り返していくうちに他の山の食材との関わり方も覚えてくる。

クロモジはお茶にすることが多いが乳製品とも合う。お茶にする場合は枝が若いと香りも若い。春には小さな可愛らしい花を咲かす。秋頃の枝は固くなっていて煮出しても若さがない。切った後の乾燥具合でも違ってくるが、どちらも爽やかな香りがあり良いのだ。


春の終わりにアスパラガスの農作業を小屋でしていると、近所の婆さんが赤ミズという山で採ってきた山菜を分けに来てくれる。どこで採ったのか聞くと、無邪気な笑顔で内緒とはぐらかされる。分かってて聞くのだが近所の婆さんや爺さんは山に自分の秘密の場所や山との約束事を持っていたりする。

田舎の暮らしの共同体感が好きじゃなかったが、山に入ることで人間社会だけじゃない関係があることが緩衝材になっていると今は思えるようになった。一度食べれるのが判れば山は心地よい居場所を分けてくれる。



・第3章 調査内容

誰かが調理した料理はなぜか美味しい。

猪肉と菊芋を粘土焼で焼いてみた。油紙と粘土で包む。

5人ぐらいで畑から土を掘り起こして土にある根っこを取り除いてパスタを作るように、人によってはもんじゃ焼きの要領で中央にくぼみを作ってそこに水を流し捏ねていく。1センチ以下ぐらいに粘土を伸ばしたら油紙をまいた食材を粘土に乗せて包む。この時動かしやすいように段ボールの上に乗せて作業すると良いことがわかった。地面に薪とススキをひいて粘土を乗せてその上にススキを被せて火を付ける。食材の大きさによるが1〜2時間焼く。

途中、粘土焼きが失敗しそうになったのはハラハラした。小雨が降ったり、なかなか焼けず薪を多く焼べたりしてもらいながら、出来上がった粘土焼きは鉱物感があり猪肉が鶏ハムっぽくなる。

みんなで農作業のように調理して食べることが出来た。


当日のメニューは、猪と菊芋の粘土焼き、アカジコウと山葡萄、焙煎クロモジとハトムギ茶、ヤマドリタケモドキと凍み大根/トンブリのごはん、アケビの手前味噌漬け、蕪の柚子白和(フキノトウオイル/アスパラガス塩)、牛蒡佃煮のオリーブ和え(アスパラガスナンプラー)、青豆のデミ煮込みハンバーグ、サツマイモとクリームチーズの最中。

育てたアスパラガスの調味料や、夏や秋に採集保存した食材を使って出来上がったのは東北の農家食。


前日に畑に伺って、農家さんから野菜を貰う。不耕作栽培で育てた野菜だ。人参が凸凹して美味しそうだ。

収穫した穴に、又来年穴をそのままにして種を植えるらしい。人参が作った土の環境をそのままにしてそこに種取りをした種を植える。

山形県の農家に人参の育て方を聞いた時は、軽く耕した土に種を植えたらそこを踏み固めると、土が固くなって凸凹した人参が出来ると言っていた。

人が手間をかけるか、土が手間をかけるかの違いで同じことをしているのは驚いた。


当日は37名の参加者がそれぞれ分担して調理をした。

一通り調理が終わり、後は火加減を見ながら番をするだけになると休憩の時間になった。。。



・第4章 調査内容



・第5章 調査内容





・考察・対談・展示



・限界

個人的な試みだけだとくるみ味の様な美味しいの普遍性を得れないので、食域を共有できるような人とも繋がっていく必要がある。

農家だった祖母の味は、近所の婆さんたちの味でもあった。茶飲み時の持ち寄りの文化があって、その時の美味しい料理はレシピが共有せれて各家庭へと試されていく。そしてそれを元に、その家庭の味に変容された味付けは今の私の味覚に影響を与えている。そうやって農家食は出来上がっていく。



・おわりに

つまり「私たちはどこで何を食べているのか」とは、




参考文献

マイケル・ポーラン 著/野中香方子 訳 (2014) 『人間は料理をする』NTT出版

菊地和博 (2012) 『シシ踊り~鎮魂供養の民族~』岩田書院

中沢新一 (2002) 『緑の資本論』集英社 

安井大輔 (2014) 『food syudies guidebook』ナカニシヤ出版

生田久美子 北村勝郎 (2011) 『わざ言語』慶應義塾大学出版会 

中川尚史 (1999) 『食べる速さの生態学 猿たちの採食戦略』京都大学学術出版

野本寛一 (2005) 『栃と餅』岩波書店

本原令子 (2018) 『登呂で、私は考えた。』静岡新聞社