nokatachi

2023/05/18 16:22

食堂屋をしていた時に得た経験だが、抱え込む様な縁ばかりは疲れる。

そういった事実ではない事実を、信じ込もうとすることは手放していきたい。

それをやっていると大勢の人の中にいて、私が空洞になる事がある。

しかし私は畑で1人、作業をしていても空洞になる事がない。

それがただ心地良いだけで、日々農作業をしている。

しかし、それ以上にその心地よさが何なのかを、採集や収穫から無自覚に得ていたモノを浮き彫りにしていきたい。


「 私たちはどこで何を食べているのか 」

人は一本のチューブである。芸術人類学者の石倉敏明氏の内蔵と外蔵と言う考えがある。

食べるという行為に、どこまで主体性があるのかを検討してみたい。


私は農家(兼業農家)だが、まず、周辺の地域には資本/共産/社会の3つの主義が混在していると考えている。それは、山や畑、社会のモノやお金、人の流れで知る事ができる。そして、さらに「公」と「私」の2つの領域が重なり行き来する。



photo 森さん。武田さん達と第1回目の会


・畑でご飯会

今年に入って、畑でご飯会を5回開催した。

畑で採れるアスパラガスをその場で天ぷらにして食べるのが趣旨の食事だ。

それだけのコトだが、その全てが違うモノになった。


畑に興味を持ってくれた遠方の友人たちが来てくれる。

収穫した喜びを分かち合いながら、その場を丸ごと味わコトになった。


そして、これは少しでも畑を知ってもらう為の現代農業の生業の一環でもある。

アスパラガス収穫時の人的動員が減少していく問題の現実的な危機対応でもある。

文化人類学者の波平恵美子氏の著書から知ったことだが「畑のご飯会」は、「祭り」の成り立ちでもある一側面的な危機管理において近い視座を感じる。

農業は常に飢餓・凶作の問題を抱えていた。そしてそういった危機管理・対策から祭りのような楽しみを作ってきたようだ。

持つとか持って走るとかの荒業をする。そう言う祭りの中で民俗学だと神賑(しんしん)と言う言葉がある。神様を楽しませる賑わいだ。そこが娯楽であり楽しみになっている。これは見方を変えれば明らかに危機管理からきているようだ。


外で食べると言うことは、テーブルの上を行き交う蟻を許容し合い、時折、強くなる日差しや風に耐える場でもあった。

そして、アスパラガスを食べながら隣の畑に目をやり、山菜を食べながら、採ってきた山を見ることも出来る。

ここに食べに来た友人達は一様に感動をしてくれる。それを見て私たちは心から嬉しかった。

ただそこに自然があって、そこで採れるアスパラガスや山のモノを一緒に食べている日常的な行為が、他者の日常的な思い出に入るキッカケをくれる。

それは私の日常は誰かの非日常であることを実感させてくれるし、逆もそうであった。

その中で、私の日常の中にあって無自覚な事実を浮き彫りに出来たら良いのだが、なかなか難しい。



・始めからある市庭

アスパラガス農家をしていると、時々どこまででも採れるという感覚になる。採っても採っても終わらない状況に出くわす。

日差しの強い日に雨が降った後の収穫時。この時、感覚的には12時間で5㎝位グングンと伸びている。そうすると、ゆっくりじっくり伸びているアスパラガスに比べて、細胞の感覚が大きくなって柔らかくなっているように感じる。グングン伸びたモノには太陽の熱が蓄えられているし、じっくり伸びたモノには朝露の冷たさで締まっている。


市場と繋がっていると、そこに流せばお金が手に入るがために、大変だが体を引き摺ってでも労働に勤しむ。

そしてなぜか、良いモノは市場に出して、そこから弾かれた余り物を家で食べる。

なので、まず私たちが食べる分があって、余剰を他者と分つという考えに疑問を思う。

これは自給自足から商品交換へとは違う。余りモノをあげるのではなく、余りモノを残すという行為の中にいる。


現代も同じだが、歴史を辿れば、百姓の中の農民は中世社会の土地を所有するという事実ではない事実の、土地制度を単位とする共同体を形成していた。

その生活は中世当初から市場(市庭)と不可分に結びついていた。

中世社会に「上分」という言葉がある。これは神仏に捧げる税のことを指す。

200円のアスパラガスを売るために、草抜きからの労働を全て時給換算したら割に合わない。

人が苦労をして、自然からかちえることの出来た様々なものを、なぜ容易く他人の手に渡してしまうのか。

そして、それをなぜ負担として負い続けることを義務としてきたのか。この利足は何なのか。

重力のような目には見えない事実が何か隠れているようにも感じる。

ここにみられた市庭で交易される商品や貨幣、金融や土木建築の資本は、古墳時代はもとより縄文時代に遡って機能していたと考えられる。

実際、縄文時代の集落は、すでに自給自足などはなく、交易を前提とした生産を背景とする広域的な流通によって支えられた、安定した定住生活を長期にわたって維持していたとされている。とすると、商品・貨幣・資本それ自体は、人類の歴史の特定の段階に出現するのではなく、その始原から現代まで一貫して機能しており、人間の本質と深く関わりのある物と考えれる。/市での交易において、まず最初の交易を初尾して神仏に捧げる習俗を背景に、市庭税の微収が行われた。

上分として収められた物は、「上分物」として利子付きで貸し与えてもいた。

金融の発生が、神仏の物などの賃与に求められることは、世界の諸民族に共有している。日本の場合は、それが初尾、初穂として「上分」を「資本」とする形で現れる。上分物を利足付きで貸し与えてもいた原形が、初穂として神、首長に貢献され、聖なる場所としての倉庫に納められた籾を、種籾として貸与し、収穫時に利分を付して返却させることにある。

網野善彦  2003年『日本中世の百姓と職能民』平凡社ライブラリー