nokatachi

2023/09/09 05:57



中村生雄

『祭祀と供犠 日本人の自然観・動物観』 (法蔵館文庫 2022年)

「第1部/動物供犠と日本の祭祀」



日本社会が大陸伝来の仏典そのままに地獄思想を受け入れたのではなく、そこに特有の身体観念を投影し意図的な潤色をおこなってきた。

地獄の情景の一部で俎上での人体調理のシーンが書き込まれている例としては、人が死んで地獄に堕ちたら、そこでは、誰も俎に据えられ刀で身体を切り割られるばかりか、食べられてしまうかもしれないという恐れに、多くの日本人がおののいていたということでもあろう。

人間が自らの体を責め苛まれ、その果てに絶命する最も忌まわしい場面であるはずの地獄での応報の姿が、実はイケニヘ逸話というフィクショナルな空間を母胎として生まれた物であり、そこで古代の神と人との「食べる」ことを介した根源的な結びつきがあったという事実は重要であるし、またそこからは、日本におけるアルカイックな生命感覚、すなわち自己と自然との双方に連続して流れる命の感覚といったものを読み取る事ができるはずである。

※「俎」は、祭祀・燕饗に牲(イケニヘ)を載せる器であって、俎の字の偏はイケニヘの半体の肉、残りは祭台を意味している。



食べられたものはそのまま、それを食べたものの身体になるのだ。このような、食べることの素朴なリアリズムから発した呪術的な身体感については、益田勝実が既に明らかにしている。すなわち、古代における「ミ」という言葉には、食用となる動物や魚介の「身」、穀物や果物の「実」をさすと同時に、それを食べる人間の「身」をもさしていた。

それは、ひっくり返して「身になるものを食べている」ともいえよう。日本人は古来、自分のミになる様な食べ物をミと呼んだ。

古代人の身体感が彼らの《食》についての素朴な感覚と切り離せないものであることを強要したのである。



宮崎県銀鏡に伝わる神楽がある。

かつては猟で獲れたばかりの猪が解体され、血の滴る頭部が神楽の庭に運び込まれたわけだ。いうまでもなくそこでは、血を穢れとする稲作民的なタブー意識は存在しない。常識的に言えばもっとも清浄さが要求される神楽の庭に、血に染まった猪頭を並べ、それを見上げながら銀鏡神楽の演目が舞われるのである。

ただし、最初から猪頭が並んでいるわけではない。神楽の始まる前に、座付と称する精進の宴席がある。そこでは白飯を円筒型に固めたヘソメシや豆腐・神酒などを共食するのだが、ここでは清浄さが強く志向されている。

この様に当初は清浄なる米の共食で始まった神事が猪頭をそなえたしめの前での徹夜の神楽に移行する。

その後、くだんの猪頭は削ぎ落とした肉ばかりか脳味噌までもが全て雑煮の具として人々に振舞われるのである。この共食によって野生獣の活力が人々の体内に取り込まれ、それが厳しい冬を越すための霊的な力になると信じられてたのだろう。

そこには「人間と自然との共生」「人と動物との共存」といった観念など微塵もない。そこにあるのは、自らの身体的な生命を維持強化する為に不可欠の、食べるという行為にたいする確信と肯定であり、食の直接性による合一の信念なのである。