2023/09/18 12:36
中村生雄
『祭祀と供犠 日本人の自然観・動物観』 (法蔵館文庫 2022年)
「第2部/日本宗教のなかの人と動物」
神話時代にかぎらず古代・中世の日本において、人と動物の境界は、輪廻思想の直接間接の影響もあって、極めて不分明なものであった。それは神人通婚譚や異類婚姻譚、それを背景に語られる動物始祖伝承を念頭に思い浮かべれば納得がいく。そこでは神と人と動物は緩やかに接続し、相互に乗り入れ可能な存在としてイメージされていたと言えるだろう。面白いのは、その様な人と動物の連続性についての意識が、仏教本来の「不殺生」観念を逆転してそれとは正反対の「殺生善根論」を生み出すことになった事である。主流の観念やイデオロギーは、その周辺部に必然的に対抗的な観念とそれに依拠する集団を形成させずにはおかないのであった。
動物を神の賜物と見なして、その賜物のうちの一部を神に送り返すのが「供犠の文化」であり、動物殺しという人間の罪を神の権限によって一挙に解消・免罪する事が目指された。もう一つは、殺した動物の霊を伴う「供養の文化」であり、動物殺しの罪を事後も確認しつつ罪責感情を少しづつ浄化しようとすると考えた。
人と動物の連続性が意識される中で定着していった「動物供養」の観念とその制度は、直ちに「人/動物」関係の現実を変化させ、両者の平和共存をもたらしたわけではない。むしろ、事態は逆であったと考えたほうが良かろう。動物を人間の死者と同様に供養の対象とし、手厚く弔うことが、逆に各種の動物利用の正当化、効率化を促進し、本来それに伴うはずの罪責感を無化することに力を貸した面も否定し難いからである。
そもそも死者に対する「供養」はインド仏教の当初から存在したものではなく、むしろ中国での儒教的な祖先祭祀に仏教がすり寄った結果であり、またそのような仏教風に色付けされら祖先祭祀が日本社会にも受容され浸透した結果であった。ましてや、それが動物に対しても適用されるなどという事態は、仏教式供養の極めて新しいオプションなのである。