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2023/09/19 17:50



中村生雄

『祭祀と供犠 日本人の自然観・動物観』 (法蔵館文庫 2022年)



人は自らの一部をイケニヘに差し出さずとも、神の祟りを回避する全てを手に入れることになる。神と里人との関係が、里人が一方的に神の消費の対象になる関係としてではなく、そこに結婚と出産という再生産のメカニズムがはたらく関係へと読み替えられたことを意味している。そして一方、儀礼的なレベルにおいて神と里人との間の再生産メカニズムを具体化したものが、神祀りにおける”神人共食”という形式なのではないだろうか。


”自然の神”から”文化の神”への転換、あるいは”神人通婚”のモチーフと”神人共食”の儀礼形式の創出は、神の祀りをとおして自らの継続的な安定を獲得しえた共同体にとっての、物語を介した秩序の確認行為に他ならない。

共同体は神との関わりを通じて己の側の維持・強化を構想していることに変わりはないからで、前者の場合はそれが”種”の再生産の課題として語られ、後者の場合は”個”の再生産の課題として実践されるという相違があるだけだとみなせよう。

従って、”神人通婚”と”神人共食”という”性”と”食”をモチーフに構成される物語と儀礼は、神と共同体との安定的・持続的な関係を成立させるための文化装置のユニットなのであった。その結果、人々は自分達の一部である娘をイケニヘに差し出すのではなく、いわばその物語上の代償として、共同体の貴重財である女性を”神の嫁”という名目で神に仕える巫女とみなし、それと同時に、やはり共同体の算出する最優秀品目を、神の食べ物として提供することになる。

こうして祀りは”発生としての祀り”の偶然性から脱し、”制度としての祀り”の安定性を確保することになったはずである。



”神人共食”という神祀りの形式は、人が”自然の神”に食われる(と想定された)原初のイケニヘの形態が、人が”文化の神”と共に同じ動物をイケニヘとして食べる形態へと移行することによって登場した。

つまり、それまでは人をイケニヘとして食っていた(と想定された)”自然の神”が、新参の”文化の神”の威力に屈し、里人の前から姿を消すことによって、人身供犠という残酷で野蛮な習俗は終わりを告げたと語られるのであった。そして今度は、新しい”文化の神”が、かつての娘のイケニヘの代わりに人の手で鹿や猪などを供えられ、それを人と共食することになる。



”神人共食”とは、新しい”文化の神”と同盟した共同体が、その同盟の成果として、古い”自然の神”の身体を新しい神と分け合いつつ食ってしまうという、いわば”祟り神”にたいする勝利の再確認だったのではなかろうか。