nokatachi

2023/09/26 10:35



岸政彦 梶谷懐

『所有とは何か』 (中央公論新社 2023年)

「小川さやか 第2章 タンザニアのインフォーマル経済」



「私のもの」が「他の誰かのもの」に変化する際、そのものは、それを一時所有した「私」から切り離された無色透明の「モノ」になるわけではない事である。

モノの価値は、使用価値ではなく、モノの社会的履歴に伴って変化する交換価値によっても決まることを論じた。

元の所有者や関係者のアイデンティティがモノに付帯するという考え方は、人類学ではとりわけモノが贈与される場面において強調されてきた。そのような議論の端緒は、マルセル・モースの『贈与論』におけるマオリの贈り物の霊「ハウ」をめぐる謎だ。



打算的であり、かつ寛大でもあり、個人主義的であり、かつ共産主義的でもあるというモースの贈与論は、矛盾した極を往還し、その間で思考することが要だった。

資本主義経済の中で生きていくためにこそ、自身の人格が宿るような贈与をし、自己の一部を身体の外側へと届け、資本主義経済で承認される自他の区別とは違う形で自己を確立する余地を広げておく必要がある。



分散した自己の一部は、家族をもうけて自立的・自律的に生きるといった狭義の系譜とは別に、商世界の中で彼ら独自の「系譜」をつくっていく事になる。



多くの貨幣や富を貯蓄しなければ、役職や地位を得られなければ、何らかの成果を出さなければ、他者から評価されず、特別な人間として承認されない資本主義経済を他者と競争しながら生きていくのは大変だ。所有に過度に縛られずに生きていけないものかと思う。だが、テクノロジーを介した交換や共有の仕組みが発展し、誰もがその時に必要とするものやサービスにアクセスできる世界ができたら、私たちは自由に楽しく生きていけるのだろうか。使用頻度が低いモノをみんなで共有する、遊休資産を有効活用する、不用品を融通し合う、互いのスキルを交換・シェアする。その時に「私らしさ」は、どこに宿、誰に承認されているのだろうか。



「梶谷懐 第3章 慣習としての所有制度」

「アジア的所有」のあり方を研究してきた福本勝清、曰く。

問題は、主として、アジアにおける所有の重層性と、所有権の弱さにあった。

西欧人の目には、たとえアジアの農民が、自分の先祖伝来の農地を耕作し、時にはその耕地を売買することによって、私有性が確立していたように見えたとしても、その所有権にはあまりにも弱く、土地はまるで、王や皇帝のものであり、個々の農民はただそれを保有しているだけのように見えた。