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2023/09/29 16:18



金井 典美

『湿原祭祀』 (法政大学出版局 1977年)



東北地方も北端に近い青森県の岩木山では、山頂近くの湿原を、御手洗池とか「種蒔苗代」と言う。旧暦八月一日、登拝者はこの湿原で散供を打つといい、米・銭を紙に包み、池中に浮かべて、その沈み具合で、稲の豊凶や、祈願することの成就を占う。紙包が早く沈むほどに吉だという。


本居宣長は「古事記伝」において、宇岐士摩理=浮渚=浮島とし、さらに、「あめつちひらくる初に、くにつちの浮かれ漂へること、たとえば遊ぶ魚の水の上に浮かべるが如し、時に天地の中に一物生れり、かたち葦かびのごとし」をひいて、国土創草の状態を「浮渚」

によって表現したものとされている。



水田や人家でなく、湿地帯や川の口に堤を設けて、大きな灌漑用地を作る場合も、その土地や川の神の宿る聖所として、池中に小島を築く風習があったらしく、、大和や河内あたりの古い池には、今日もそれらしい島が残っている。大和で最も古い古墳と言われる箸墓や祟神陵などの周濠中に見える小島がそれだとしたら、その風習は4世紀にも遡ることになる。後の古墳の「つくり出し」もその変形であろうか。

逆に大きな自然の池を埋める場合も、一部に小さく池を残して、その畔や突き出たところ、あるいは同じく小島を築いて、水の神を祀ったことが想像される。

有名な弥生遺跡の大和の唐古池の西方に、石見遺跡という謎の遺跡がある。この島状の微高地は決して古墳ではなく、一種の祭祀遺跡と推定されているが、これこそ湿地を開発した土地神に対する慰霊祭祀の跡ではなかったろうか。その円形の島の周濠に埴輪などを投じて祭儀を行ったものであろうか。



元来人が踏み入れてはならぬ空間を「神地」とし、その神地のなかで、人がその神地を祀る祭場(峠のようなもの)を「聖地」とし、人の生活の場「俗地」の中に、ミシャグウジの祠のような、取り残された聖所を「祭場」と定義したいと思う。

しかしながら、こうした各地の性格も、時代によって異なり、歴史時代人跡未跡の「神地」

であったこともあり、その頃平地の広大な湿原は、人跡未跡の神地であった。それが時代が進むにしたがって、土木技術の進歩とともに、次第に水田その他に開発されて、俗地に転じていったのである。



「神地」「聖地」「祭場」「俗地」の関係は、相対的なものであり、時代によって異なるものである。一般的に弥生時代、古墳時代と時代が進むにしたがって、俗地は低平な環境に移り、聖地が変転したのは、先述したように、外来の古代信仰の影響を受けたからであろうが、6世紀の仏教伝来以降は特に日本人の神地・聖地に対する態度は大きく変わってきたのである。



仏教僧侶が山に入るようになったのは、山を聖地とする信仰の他に、教祖釈迦がヒマラヤ山中の修行によって悟りを開いたという故事と、奈良時代に退ける宮廷仏教の堕落に対する反撥にも由来しており、また日本に入った仏教自体が、釈迦の思想そのものと言うより、多分にインドの原子信仰であるヒンズー教・バラモン教と習合したものであったから、仏教受容以前の日本の神とも習合しやすかったのである。



古代日本人の国土観は、日本の国土ははじめ浮かび漂う多くの浮島であり、それが葦が生い茂ることによって固定されたと言う一語に尽きよう。

日本神話はまさに皇室の由来を、稲作の渡来と伝播に托して語った神事劇であり、それは立礼性の成立とともに、完成された脚本だったのであろう。