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2023/10/01 14:37



中村 生雄

『日本の神と王権』 (法藏館 1994年)



もともと、人間の身体の外側にあって、ある時期そこからやってきて人間に活力を発揮させる〈たましい〉を彼は好んで「外来魂」と呼んだ。この外来魂は、外側から人間の身体へと附著し、また人間の身体から外部へと遊離していくものであった。そして、その〈たましい〉を人間の身体内に繋ぎ止め、その働きを活発ならしめること、すなわち、たまふり・たましずめのわざが、文字通り古代人の死命を制する課題だったというわけだ。



折口の〈たましい〉論によって最もくっきりと映し出されたのは、古代日本人の生そのものでも死そのものでもなく、生と死のあわいにゆらめく彼らのいのちのありようだったのである。



タタリとは「月たつ」「春たつ」「気色たつ」などのタツに由来する言葉で、もともと「出る」「あらわれる」を意味しており、したがって「祟り」も古くは「神意があらわれる」ことをさしていたと言う。

祟り神の本質は、厄災などそれがおよぼす効果にあるのではなく、その出現の形式自体にあると考えるべきで、その出現形式の最大の特徴は、人間の側の予測を超えた突発性というところに求めるべきではないだろうか。



柳田がタマヨリヒメ(玉依姫)を「新しく神に仕え祭に与った貴女」をさす普通名詞だと考えたのと同様、ヒノヒメに日の神に仕えて日の神の御子を生む巫女の集合名だったと見て大過ぎないはずである。



神となったヒメの代理者・代弁者の位置を、ヒコが奪い取ることになる。こうして、はじめはヒメの霊能の補助に過ぎなかったヒコが、やがてヒメの上位に立ってヒメの霊能をあやつることになれば、ついにはヒコじしんが神の資格を代行するに至る。

もともと彼はヒメの霊能力をサービスする介添人でしかなかったにもかかわらず。ヒメの行う〈発生としての祀り〉を〈制度としての祀り〉に再編成することによって、ヒメの権威を我がものにすることに成功したと言ってもいい。

このとき彼に不可欠だったのが、既に明らかな通り、天上の見えざる神と彼とが〈血〉によって結ばれているという〈系譜〉の観念であった。



そもそも日本の神はその発生の段階においては押し並べて〈祟り神〉だったのであって、そのような原初の神の〈祟り神〉性が人間の手になる祀りによって徐々に和められ、やがて神々の性格は〈祟り神〉から〈守り神〉へと推移していったはずだからである。