2023/10/11 19:43
暉峻 衆三
『日本の農業150年』 (有斐閣ブックス 2003年)
他、山下一仁 経済産業研究所コラム
アメリカにもEUにも農家の利益を代弁する政治団体はある。しかし、これらの団体とJA農協が決定的に違うのは、JA農協それ自体が経済活動も行っていることである。その手段は、高米価・減反政策である。
高米価で利益を得るJA農協を擁護しないと、農林族議員は当選できない。農林水産省は農林議員に逆らうと予算も獲得できないし、職員も出世できない。またJA農協は天下り先でもある。このJA農協、農林族議員、農林水産省の農政トライアングルが、農政を仕切っている。このような癒着の関係は、戦前には存在しなかった。
1890年に開設された帝国議会の選挙権は一定額以上の納税者の男性にのみ与えられていた。その多くは地主だった。収穫の半分を小作料として微収される小作人と地主との間で、小作協議が頻発した。当時は地主階級の利益を代弁する帝国議会に、小作人の立場に立ち農林省が対峙するという関係だった。
1930年の昭和恐慌の際、農林省に支援されて、農院の互助組織として幅広い事業を行う産業組合が、全町村に、全農家を加入させて成立した。
この産業組合が今日の「JA農協」の起こりである。JA農協は農民が自主的に作ったのではなく、農林省が作ったものである。
農林省と対立する地主階級が政治運動の拠点としたのが農会組織である。ところが1937年の日中戦争開始以降、国を挙げての総力戦となったため、戦時体制に深く統合されていった。
1938年ごろ、食糧管理法の下で生産者が作った米は地主に納められる米納小作料を含め、自家消費米を除き、全て政府に売ることが義務付けられた。農林省は、食糧管理制度を使って地主制度の解体を進めた。
産業組合(政府への出荷や流通統制)と農会組織(農業技術指導や政治活動)を統合して、1943年、戦時統制団体である「農業会」が設立された。
終戦直後の食糧難でヤミ市場の価格が暴落したので、政府が消費者に米を配給しようとしても、農家は政府に米を売ろうとしない。そこで、農林省は、戦時統制団体だった農業界を”農協”に転換して、政府のために米を集荷させた。
農協法を作るとき、信用(銀行)事業を兼業できることをGHQに認めさせたことから農協は一大発展を遂げる。
農地改革は1ha程度の均質・平等な自作農を作り出した。かつて社会主義勢力に支援された旧小作人は、土地を持ったため保守化した。この均質な農村は、1人一票を原理とするJA農協によって組織され、戦後の長期保守政権の基礎を作った。日本の農村は共産主義からの防波堤になったのである。
農地改革の成果を固定しようとして制定されたのが、1952年の農地法である。
戦前小作人解放と並ぶ課題だった、零細農業構造を解決することが、次の農政の目標となった。規模の大きな農家を作ると言うことは、1人一票のJA農協の組織原理に反するとともに、農民票を減少させてしまう。その後、国民経済に占める農業の比重が低下していくと、農林省は予算獲得のため、農家戸数を維持しなければいけなくなった。
農業の発展ではなく、兼業化によって農家所得の向上という農政の目的は達成された。1960年代後半には、食糧増産も達成された。