nokatachi

2023/10/14 07:42



デヴィット・グレーバー

『価値論』 (以文社 2022年)



カポヤにおける「美」の観念は、共同体全体を一つにする。偉大な儀礼の中に現れる調和に体現される。これらは、カポヤ社会における社会的価値を表している。なぜなら、ここでは、何の制約もない自己表現(つまり、遠慮の完全な欠如、すなわち、自在な支配力の発揮)と、完全なる熟練とスタイルの豊穣さ、すなわち「美」の権化とが、完全に結合していると捉えられているからである。

社会とは、そのような価値の追求の副次的な作用として創造される、と言いたくなる。しかし、これは正確ではない。なぜならそれは社会を物象化してしまっているからだ。実際、社会は決してモノではない。社会とは、これらすべての活動が調整される過程の全体であり、価値とは、行為者が社会の一員として自身の活動に意味を見出す仕方である。



多くの重要な目的は、何らかの集合的な観衆の目の前でしか実現できないモノである。実際、分析者の視点から見れば「社会」は極めて流動的で捉えどころのない過程であるが、行為者からの視点からは、もっと簡単に定義できるとさえ言えるかもしれない。「社会」は単に、潜在的なオーディエンスによって構成されている。そのオーディエンスとは、その人たちのあなたについての意見が、あなたにとって気になるような人たちである。反対に、オーディエンスに含まれないのは、その人たちの、あなたについての意見など、あなたが全く考えもしないような人たちである。



政治の究極的な課題は、ターナーによれば、価値を領有する為の闘争でさえもないのだ。それは何が価値であるかを確立するための闘争である。同じように、究極的な自由とは、価値を創りだしたり蓄積したりする自由ではなく、人生を生きるに値するものとするのは何かを(集団として、個人として)決定する自由である。


個人主義的な創造的消費の理想であろうと、私がここで構築しようとしている自由な文化的創造力と脱中心化の概念であろうと、すべての自由の概念は、社会や価値はかくあらねばならないとする全体主義的な理念の押し付けに対して抵抗する必要があると同時に、ある種の制御機構が存在しなければならないことを確認する必要がある。

だから、人々が自らが望むあらゆるやり方で、価値を構想する自由を保障するために、最良の制御機構とはどのようなものであるかを、真剣に考えなければならないのだ。

そうしなければ、そうとは認めないまま、市場の論理を再生産するだけに終わるだろう。

現在、国民国家は主に企業の財産を保護するためにあり、選挙で選ばれていない国際機関が、主に投資家の利益を守るためにだけ、基本的には統制されていない「自由市場」を規制してる。その中で私たちの「自由」は、個人的な消費選択の「自由」のみに制限されている。



何らかのものに付与された価値を理解するためには、そのものの歴史を構成する、創造、聖別、使用や収奪などのさまざまな行為の意味を理解しなければならない。

人がものに価値を認めるとき、その人は時間をまたぐ架け橋のようなものになるのである。それはつまり、モノに現在の形式を与えることになった過去の欲望や意志の歴史の存在を認めるというだけではなく、まさにその認識それ自体によってその歴史が新たに活性化され、自分自身の欲望と願いと意志とを通じて延長するということをも認めるということである。モノをフェティッシュ化するとき、人は、自身の欲望に内在化された歴史の力を、モノ自体に本性的に備わった力であると誤認する。フェティッシュ化としてのモノは、それを見る者の歪められた意志の鏡になるのである。そして、ある面で、欲望という観念それ自体が、そのようなフェティッシュ化を必要とするのである。