nokatachi

2023/10/17 23:23



松木 武彦

『古墳とはなにか』 (角川ソフィア文庫 2023年)



現代の農村を見てもわかるように、農家だけの集落なら一定の規模を超えることはない。一定の規模を超えればもはや「町」であり、そこには必ず店舗や小工場など、農業以外の人々の生業の場が現れることになる。先史の社会であれば、市や工房がそれにあたる。


町は、大農村が解体した後に出てきたものだ。他地域土器が示すように、これらの町には、そこで生まれた人だけではなく、故地を離れて遠く移り住んできた人々も少なくなかったに違いない。そのような人々はまた、それら他地域土器の往来や金属器工房が示す農業以外の産業、言うなれば第二次・第三次産業に携わった場合も多いかっただろう。


農業の集約化、手工業や地域間交流の発展の核となった町は、伝統的な血縁よりも、そうした新しい生業の元に生み出された「職縁」「地縁」ともいうべきつながりのもとに人々が集う所になっただろう。


大農耕集落の解体と再編に反映された目まぐるしい動きの中でもはや共生を保てなくなり、個人や、その直接の係累であるキョウダイごとに埋葬の場を定めることが、町を発信源として普遍化したと考えられるのである。これが個別墓出現の道筋、言い換えれば古墳成立のプロセスだ。


個人やその係累同士の競合と秩序形成は、リネージのような古お血縁上の地位に祀ってではなく、都市的集落の成立背景となった農業の集約化、遠距離交易、手工業などの新たな産業の統率や管理をめぐってなされる局面が多かっただろう。そのような、新しい多彩な活動を象徴する方向での墳丘の整備、副葬品の充実、シンボリズムの表現などが、一段と盛んに行われるようになった。


親族墓から個別墓へという造墓原理の転換を経た後の古墳時代のそれは、親族同士の競合の表現というくびきから解き放たれて、個人固有の権威の演出という形へとエスカレートした。



豊富な鉄を単に道具の素材と見て、その取得・加工・流通の現実的な仕組みを整え、その中心に立ったツクシ。貴重な鉄に財としての心理的価値をのせ、これをコントロールする宗教的な仕組みを整備して、その核となったヤマト。この新旧二つのシステムは、古墳時代に入ってもしばらくの間、ツクシとヤマトをそれぞれの中心として並び立っていたかのようである。


以上のように、チクシ時代からヤマト時代への移行期である古墳時代は、少なくてもその初めの頃、旧中心のツクシと新中心のヤマトとが、それぞれ異なった役割を持って、中心を分け合っていたようだ。



中心移動の理由の第二は、世界史に共通した普遍的な要因だ。旧中心を核として機能していた古い社会や経済の仕組みが、内外のさまざま変化によって、疲弊したり、うまく回らなくなってきたりすると、そうした変化に即応した新たな仕組みが芽を出し、やがてはそちらの方が主体的な仕組みへと成長していく。こういう時、新たな仕組みは、古い仕組みが浸透していたところよりも、むしろそれが十分でなかった外縁で、なおかつ新しい環境に適合した条件の場所を中心にして成長しがちだ。

鉄が豊富だった九州北部や山陰ではなく、それが乏しかった外縁の瀬戸内や畿内に初期の大きな前方後円墳がたくさん現れらことの背景には、このようなメカニズムが働いたと考えられる。