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2023/10/18 19:52



松木 武彦

『古墳とはなにか』 (角川ソフィア文庫 2023年)



前方後円墳の葬送は、石室の構築を挟み込む長丁場の儀式であり、さらにそれ以前の墳丘の構築や埴輪・葺石の設置なども含めると、年単位で進行したプログラムの一部だったと見るべきだろう。


古墳は、人々が生活する空間や時間の中で極めて大きな比重を占めた。空間と時間の認知を通じて、人々の心や身体を支配するようになっていったのである。このような現象を「エンボディメント(身体への内在化)」とよんで重視している。


古墳の基本形とは「亡き人を高く埋めてあおぐ」という認識と行為の表現だ。

基本形が守られ、それを彩るわずかな要素があるだけで、それは宮居らしく見える。この「らしくみえる」という認知こそが、モノのカテゴリー化のうえで極めて重要だ。



素材の産地や陸揚げ地で作った各地の「特産品」を遠距離交易ルートに乗せて集散させる古い仕組みから、産業拠点へと素材を集中させて体系的に生産する新しいシステムへと、5世紀に入るころ、生産と流通の構造が大きく転換した。



大型前方後円墳の分立に見られる政治的な分権化は、それぞれの地方の経済的な発展と自立に根ざしていた。新しい生産活動とは、手工業だけに限られるものではない。鍛冶から作られる鉄の開墾具や農具は、耕地や工作に力を発揮し、農業生産発展の大元になった。

また、新しい窯業で生み出された陶器は、とりわけ漏れのない大きな甕を作るのによいので、大量の液体を貯蔵したり、きれいな水を必要とする場所でふんだんに使ったりするのに役立った。鍛冶、青銅器鋳造、窯業などのさまざまな生産現場で、水をたたえた須恵器の大甕が活躍し、生産の質と量を向上させた。


関東北部の古墳と村及び耕地の関係を検討し、前方後円墳などの大きな古墳は、新しく水利が整えられて耕地が開かれたところに現れる。水利を統一し、耕地を経営して農業生産の頂点に立った長が、大きな古墳の主になると考えらえた。それもまた、優れた開墾具や農具を作る鍛治などの手工業の発展によるところが大きい。この時期に各地に根付いた新しい産業と農業の発展とは、地域による比重の違いこそあれ、5世紀に入ることの各地で生じた。



古墳時代の社会に都市的諸機能が芽生えていてもそれが集中しなかったのは、諸勢力が相争う社会的緊張も、自由な商業流通の発展も十分ではなかった。

生産や流通が、その質や量のレベルの割にいつでも王侯に支配されているようにみえるのは、それに必要な技術や資材をまだ完全に自前のものとしきれず、朝鮮半島を主とする列島外の先進地に頼っていたからだろう。すなわち、外部の社会から技術者を招き、多くの手工業産品の原料となる鉄素材を確保するためには、外交と軍事をにぎって外部社会との境界に立つ王侯たちの力に、社会は依存せざるを得なかった。このような状況が続く限り、王侯の権威は保証され、彼らの古墳の造営は世代を超えて伝承されたのである。