2023/10/31 13:04
岡本 裕一朗
『ポスト・ヒューマニズム』 (NHK出版 2021年)
19世紀も終わりに近づく頃、ニーチェはニヒリズムの到来を高らかに宣言している。「神が存在しない」ことによって、法律や道徳、さらには人生の意味さえも、確固とした支えを失ってしまうかもしれないのである。こうして「神なき時代」には、どう生きて、どう判断すればいいかが大きな問題となったのだ。
もう一つの側面は、サルトルの「実存主義」に見てとれる。サルトルは、第二大戦後の混乱した社会状況の中で「実在主義はヒューマニズムである」という講演を行い、実存主義を新たな時代の思想として強力に打ち出した。サルトルはニーチェのニヒリズムを受けて、「神」に代わって「人間」を思想の原理に置いた。もし「神」が存在しないなら、それに代わって人間が根拠や意味を与えていかなくてはならない、と考えたのだ。
では実存主義に代わる、ハイデガーの思想はどうだったか。彼はそれを「存在」の思想と呼んでいる。実際ハイデガーは、サルトルのような「実存主義」を、「近代的な人間の主観性」に基づく形而上学と考え、「存在の思想」によって超えていく必要がある、と力説している。
ニーチェは「人間」は目的となるようなものではなく、過渡的存在であるということを述べている。すなわち、猿のように動物として生きるのか、それとも人間を乗り越えて「超人」として生きるのか。
フーコーによると、近代の中心概念である「人間」が誕生したのは、18世紀末である。「18世紀末以前に、《人間》というものは存在しなかった」。また、カントによれば「人間」は一方で観察対象になる客体ではあるが、他方で普遍的な知識を構築する主体でもある。
シニシズムは、権威や権力を批判するキニシズムでさえも嘲笑するのである。
批判的なキニシズムと嘲笑的なシニシズムを区別したのは、二つの理由がある。一つは、第一次対戦後にドイツでファシズムが成長したのが、社会のうちにシニシズムが広がったためだった。そして、もう一つは、20世紀末にシニシズムが世界的に醸成されつつあったからだ。何事にも深くコミットせず、真剣に議論しないシニシズムは、自分をいつも安全圏に置きながら批判的な人々を冷笑するものだ。
すでに述べたように、こうしたシニシズムはネット世界の流儀になってしまっていることは常識となっている。いわば、動物的に、その場その場の状況に応じて情動的に反応することになるのである。
相関主義批判が人間主義批判になるという意味を理解する上でヒントを与えてくれるのが、社会学で最近とみに注目されている「アクターネットワーク理論(ANT)」である。この理論の提唱者のブルーノ・ラトゥールは、社会的世界や自然的世界を考える場合、人間(主体)を中心に置いて、その関係の下で他のモノ(客体)を理解しない、ということであった。むしろ、全てのものが平等に「アクター」であって、それらが形成する複雑なネットワークを視野に収めなくてはなくない。人間を中心とした関係ではなく、「ありとあらゆる種類のまとまりを指す」ように「社会的なもの」を組み替えること、これがラトゥールの目指すANTなのだ。
ランドの思想と共に加速主義という名称が流通し始めた頃に、ランドは2012年に画期的な論稿を発表する。21世紀になってアメリカで勢力を持ち始めた政治思想として、「ネオリアクションニズム(新反動主義)」と呼ばれるものがある。これはトランプ政治と結びついたことで有名になったが、思想的には「自由至上主義」とも訳される「リバタニアニズム」に基づいている(これを経済的側面から見るとネオリベラリズム[新自由主義]と呼ぶ)。
加速主義が問題するのは、資本主義社会にどういう形で関わっていくかである。
資本主義に対抗するとき、その矛盾を批判したり、抑制しようとしたりしない点である。例えば、仕事の中で、あるいは他人との関係で、さらには自分自身に対して「疎外」(ヘーゲル、マルクス由来の概念で、自己自身から疎遠になること)を感じたら、どうするだろうか。ふつう「生き甲斐」や「人間性」を回復することで解決を目指すかもしれない。ところが、加速主義はそうした一時的な気休めを拒否し、むしろ資本主義が生み出す「疎外」を一層進めようとするのである。
新反動主義は、どのように主張しているのか。基本的には、民主主義を批判して、自由を擁護するリバタリアニズムに基づいているが、具体的な政策としては「新官房学」を提唱している。これは18世紀プロイセンのフリードリヒ2世が行った統治法から命名されたものだ。新官房学主義者(ネオカメラリスト)からすれば、国家は一つの国を所有するビジネスとなる。企業が利益を生み出すことを目指すように、国家の運営でも収益を生み出すことが重要になる。そのため、新反動主義では企業の運営と同じように、国家の運営でも民主主義は採用されないのである。
必要なことは、労働に対する反・ヘゲモニー的アプローチである。つまり、労働の必要性や望ましさといった考え、そして苦役に対する報酬といった考え、こうした現代社会に存在する考えを克服するプロジェクトが、必要なのだ。
加速主義の展開を、若い世代の左派加速主義者たちは、資本主義を抑制しないという加速主義の原則は受け継ぎながら、新自由主義的方向ではなく、労働なき世界へと出ていこうとする。このためにロボットやAIといった機械の導入が推進されることになる。加速主義の本質は、近代的なヒューマニズムの外へ出ていくことにあるのだ。