2023/11/11 01:56
暉峻 衆三
『日本の農業150年』 (有斐閣ブックス 2003年)
(1850~1945)
第一章「近代日本への出発」
特有な封建制である徳川幕府体制は、その内部に商品・貨幣経済の浸透と展開を含むことによってその崩壊を内部的に準備した。
中世以来の家父長的大経営は、牛馬による耕作が不可欠だったが、その鋤は深耕が出来ないという欠点があった。これに対して鍬は深耕が可能であって、重量・携帯を変えることによって、合理的な使用が可能だった。このため、農牛馬を持ち得ない小農民においておも土地生産力の上昇が可能であった。その意味で、近代的小農民経営は鍬中心の農法を展開した。
幕藩体制化の百姓は、支配原理の上では自給性を強制され、余剰部分を「封建地代(年貢)」として全面的に領主層に収奪される関係にあった。しかし小農民経営は、年貢部分を上回る余剰が発生すれば、それを販売・換金する可能性を持つ様になる。
これに欧米「列強」からの「開国」の外圧が加わって明治維新変革が行われ、近代日本の出発点が印された。維新政権は封建的土地所有制度・領主層を解体し、新たな国づくりを行うために特有の仕方で地租改正と秩禄処分を展開した。市場経済化とデフレのもとで、当時人口の圧倒的多数を占めた農民層の分解が生産の担い手である農民の小作化と地主制の展開を内包しつつ進んだ。
第二章「日本資本主義の確立」
明治20~30年代に製紙・紡績業での産業革命のもとで日本資本主義が特有な構造をもって確立した。この期に「戦前期」日本資本主義の「原型」が形づくられた。養蚕=製紙業は外貨の獲得、資本蓄積に大きな役割を果たし、農村を基盤とする低賃金の出稼ぎ型女子労働者が紡織工業の発展をした支えした。
西日本を中心に、地主が土地投資よりも有価証券投資に、また農業生産力よりも小作米の流通過程により多く関心を持つようになると、地主の生産的役割は後退していくことになった。
日露戦争以後、地主に対する課税の強化と米価の下落が土地投資の採算を低め、他方で小作人に負担を転換を意識するようになり、帝国農界の様な独自の圧力団体を作って、政策要求を政府に対して行う様になっていく。
基部を成した農業では地主制度「自治村落」が、また生産力的には「明治農法」が重要な役割を演じた。主要食糧であるコメの需要増大を基本的に国内自給で賄う政策がとられる中で、地主制度はこの期にほぼ順調な展開を遂げた。
永続的な農業団体として最初のものは1881年に結成された「大日本農会」である。これは全国で老農を動員しながら開催されていた「農談会」を組織化しようとしたもので、農政活動はまったく考えられていなかった。
日露戦争(1904~05年)後の植民地の確保と開発という課題を実行し、その中で低賃金を維持しながら、商品と資本の輸出を確実に増大させるためには、価格の安い日本の植民地米の開発・輸入を促進する必要があると考える資本の側と、戦後不況の下で米価が低迷するなかで外国米・植民地米が流入するのを恐れる地主側の論理とが対立した。
重要な点は、資本階級が一方で農業保護関税では地主階級に妥協しつつ、工業保護関税の障壁を高め、帝国主義的な要求を基本的に達成したことにある。
日本資本主義それは、日本の商工業へ農村から供給されている労働力に着目し、それが安価な理由は、単身離農のためにその労働者1人だけの生活費が、収入として得られれば足りるからである。そしてそのために農業が衰えぬ程度に米価が維持される必要があると同時に、むやみに高くならない様にもしなくてはならない。
第三章「独占段階への移行」
第一次世界大戦から世界大恐慌開始までのこの時期に日本資本主義は飛躍的発展を遂げ、財閥を頂点とする巨大資本の支配が確立した。
大戦期の農林業人口の減少は200万人にも及び、逆に非農林業人口が急増した。農村の影を直接には引きずらない独立した工場労働者が日本資本主義の中枢で形成され始めたことは、労働運動に新しい段階を画することになった。大戦期に経済発展を通して工場労働者が増加し、その労働の社会的評価が高まるにつれて、人格承認と待遇改善を掲げて、同じ社会、同じ国家の一員として、人並みに生きる権利を求めて立ち上がった。
都市人口の急増は、商品としての農作物に対する需要を高め、都市の消費構造の変化に対応して、特定の野菜や果実、畜産物などの食料用農産物からなる商業的農業部門が発展した。さらに繭を作る養蚕業は、1900年以降に生糸が外貨獲得の主要品目になる。
一般に、近代日本農業の生産力的特質は、労働生産性の低さを土地生産性の増大で補おうとする「多労多肥」体系にあるとされるが、このうち多肥料化が進むのは産業資本確立以降で、それまでは、むしろ刈敷などに依存する少肥性が日本農業の特徴であった。
小作農民自らが農業生産の担い手であるという自覚が形成されてくると「地主のおかげで生かしてもらっている」という隷属感は「我らが耕して造ることによって地主は生活していかれる」のだ、という意識へ転換していった。小作争議と農民運動のエネルギーは、このような小作農民内部育まれつつあった、社会的平等意識に支えられていた。
地主と小作のそれぞれの広域的な組織が小作争議を階級全体の問題として捉え、一地域の問題にとどまらず、全国的に社会問題化し、さらに政治問題ともなっていった。
労働市場と商業的農業の発展のもとで、「米騒動」の勃発、小作運動の本格化、小作料減免の獲得のもとでの小作農民の地位上昇が見られた(大正デモクラシー状況)。第一次世界大戦後の恐慌に伴う米価下落と相まって、地主制度は後退を開始した。地主・小作間の対立が激化するもとで、その緩和と調停が目指す体制側の施策が展開された。「米騒動」を契機に、米の国内自給から、植民地(朝鮮・台湾)を加えた自給へと食糧政策が転換した。
第四章「世界恐慌から戦時体制へ」
1929年の恐慌を契機に日本資本主義はいわゆる「国家独占資本主義」に移行し、日中戦争に突入する中で戦時統制経済の段階に入った。
農業技術にも1930年代に前進が見られた。日中戦争期の重化学工業の急速な発展と、離農・微用・微兵による農業労働力の不足による省力化の要請がその普及を促した。これは農家経営変容の大きな要因となった。大都市周辺や工業地域に近接する農村では、在村通勤型のいわゆる職工農家が大量に発生し、農家内部に農業取得と賃労働所得が併存する状況が一般化していった。
肥料については、無機化学肥料が急速に増えた。この化学肥料工業部門を制覇したのは財閥系資本が独占的にしていたため、有機から無機への交換は、零細農民経営に対する近代的肥料独占の支配がより強められた。
農村経済更生運動は恐慌下に始まった農林省の農政運動である。前提には、農民の疲弊は非組織化・非計画性にあるという考え方だった。これを克服するためには、農村固有の美風たる「隣保共助」の精神を徹底して、前農民を組織化しなければならないとされた。
太平洋戦争下に農業を含めて生産が崩壊して45年の敗戦を迎えた。深刻かつ長期に及んだ農業恐慌は農民(特に小作)と地主の経営を共に直撃し、地主による土地取り下げをめぐる小作争議が深刻化した。恐慌の打撃緩和のための諸施策が展開されるとともに、対外侵略の方向(「満州」農業移民)が強められた。戦時下に、農業生産と国民食糧確保のために政府は食糧管理を強化し、そのもとで地主の小作料微収を抑制して生産農民を相対的に有利化する措置を採用し、地主制度の後退がさらに促進された。