nokatachi

2023/11/18 23:15


宇野 重規 聞き手 若林 恵

『実験の民主主義』 (中公新書 2023年)



1950~1960年代の戦後日本では、「市民社会」論が独特な形で展開します。そこで「市民」とは、「経済活動を通じて自立した人々」という肯定的な意味に転化していきました。普段は職業生活を営み、経済的に自立して、その独立性を基盤に、政治に対しても、ものを言うことが望ましい市民の姿だと考えられた。

それに加えて公害問題、今でいう環境問題が大きく社会化したことで、社会的な問題に生活者として主体的に関わることの重要性が強調される様になりました。


戦後の日本では、職業を通じて経済活動をしっかりやっていれば立派に社会の一員だとみなされました。特に戦後の復興期や高度経済成長機には、人々は仕事を通じて社会に参加しているという実感を強く持てたと思います。仕事をすることこそが、市民の責務といった感覚です。今は、そんな感覚はもはや無いですね。



ファンダム空間では、自分が全てをわかっていたり、全てを自分でやれる存在では無いことが共有されてると感じます。「脆弱性」の共有というか、「誰か1人が全部を知っているわけではない」という前提のもと、「みんなで情報を共有し合えば、より多くのことを知ることができるよね」という場になっている。

(土地所有者→ブルジョワ→賃労働者→消費者→ファンダム)


うまく「始まりをデザイン」して、人が集まったら、あとは、それこそ植物の様に自生していくのを見守っていくことが重要です。


ハイデガーやユンガーは、そこで技術というモノの本質は「総動員」であり、「総駆り立て体制」にあると論じ、それ自体が自立的な仕組みだと説明しました。しかし、今なお社会全体における技術観は、素朴な道具主義的観念に囚われたままであると感じます。

技術というものを、例えば精神というものを対置して、それを道具としてのみ扱うという考えは、もはや通用しません。というのも、IT技術は、既に人間の思考装置を外部化していく方向で動いているわけですから、そもそも人間の「主体」のイメージが変わってきている。個人が自立的な主体として存在し、その集合が社会を構成しているというイメージは、技術という観点から見ると、もはや完全にフィクションです。


この議論は、「真の対話」とは何かという議論に行き着きます。人間は対話をしている様に見えて、実は単に相手に合わせて、適当に言葉をつなぎ合わせているだけかもしれない。



イデオロギーの時代とは、19世紀から20世紀のある時期ぐらいまでを指して、特定の歴史観や社会像の上に、未来予測がある程度可能であるという期待があった時代です。歴史なり社会なりの全体像を科学的かつ合理的に把握でき、その運動の予測もできると考えられたからこそ、どの様な政策を実現し、どういった運動の戦略が合理的かを論じつことができた。イデオロギー的な発想は、まさに全体論から入る発想でした。


プラグマティズムは楽天的な思想だと思われていますが、実際は、答えがわからない時代にどうしたら良いかを考え続ける、非常に懐疑的な哲学です。一人ひとりが実験していくと、社会は必ず良い方向に行くはずだという深淵というか信仰の様なものがありますが、そういったものとセットになって懐疑主義を乗り越えていこうという哲学だと捉える。

それぞれの人が自分のお力の及ぶ範囲、責任の及ぶ範囲内で、自分の思いをなんらかの行動に移してみる。また、大事なのは「習慣論」の部分です。良い実践は人が真似していく。それが連鎖していくと、多くの人々に伝播してやがて習慣として定着する。現代的で多様で、分散的な習慣の伝播というモノのデザインが重要ですね。


イデオロギーがなくなったと言わないまでも、「すべてを見渡せる」様な特権的視座がなくなり、非常に見通しが悪い時代となった。見通しが悪い時代だからこそ、直接性や距離の近さ、即応性、自分のやったことに手触りを求める様になる。「習慣」というミームの力で繋いでいくことを通じて、社会を変えていくことにもつながる。


トランプ的な現象の問題は、孤立した個人の行き場がなくなり、国家という「大きな物語」に自らを委ねて依存してしまうところです。本来であれば、そうした感情は、「大きな物語」をうまく飼い慣らしながら、ドメスティック/ローカルな文化の中で再文脈化される必要があったかもしれません。食事や台所というのは、まさに、その意味でのローカルな文脈ですよね。


食事の話にもつながります。みんなで「持ち寄る」は、必ずしも具体的な食べ物でなくても、食事を作るお手伝いや、テーブルセッティングや片づけでも良いのかもしれません。その場を支えるために必要なことを、それぞれができる範囲で持ち寄ろうということですね。「分担」ではなく「持ち寄る」。



いま「トライ&エラー」が流行らないのは、日本社会の高齢化が進み、ここで失敗したら終わるという感覚があるのでしょう。若ければ「長い目でみればいつか取り返しがつくよ」と思えますが、社会全体が高齢化してくると「ここで失敗したらアウトだ。二度と取り戻せない」となる。そういう社会ではプラグマティズムを語ると「そんな博打、誰がやるか」という話になりかねないですが、「実験」を通して学び続けるプロセスと考えれば「結果」に囚われずに済む様になりますね。


「実験」という考え方は、一つの実験をやると、そこから新たな問いが出てきて、次へ次へと進んでいくことで、それ自体を楽しむことでもありますね。答えを探すのではなく、問いを探す。


私は政治思想史と政治哲学を両方研究しているのですが、実はかなり違うモノなのです。政治哲学では、やはり「定義」が一番大切で、ある概念を使うときに、その概念をどう定義づけ、それを構成する要素をいかに分析するかが肝心です。定義抜きに議論してもなんの意味もないというのが政治哲学の発想であるのに対して、政治思想史は、概念というものが歴史の中でどう変わってきているかをみる学問です。


本当のラディカルな実験社会のカギは、常に変わり続けることをどう受け入れるかなのかもしれません。その中で人が、時間と共にいかに「深まる」のか「密度が増す」のか。