nokatachi

2024/05/12 11:27

責任編集 泉靖一 

『マリノフスキ_レヴィー=ストロース』 (中央公論社 1980年)


彼の分野は、特殊でしかも同時に普遍的である。すなわち、レヴィー=ストロースは民族学から出発して、人間の精神構造を、その構造の有する最も根源的、かつ最も一般的なモノの中から掘り出そうと努めている。人類学を、すなわち普遍的な「人間の科学」を構築しようと欲しているのである。

レヴィー=ストロースの、人間に対するこのような研究の姿勢は、マリノフスキーの機能主義をより工事に発展させたモノであり、レヴィー=ストロースの構造主義と機能主義との間には、明らかに理論的脈略をだどることができる。


では、文化現象の背後にあって、文化を文化たらしめている、すなわち、文化に表現を与えている「意識されない構造」とは、何であろうか。もし、デュルケームやモースの立場に立てば、「社会を社会たらしめている構造」あるいは、「集合表象を集合表象たらしめている構造」ということになるわけだ。


社会生活や知的思考について真だと見える事柄に、批判的注意を怠らないことです。何事でも、人の心に起こることの本当の意味は表面にはなく、解釈の作業を通して引き出されなければなりません。私にはマルクスは、社会科学に一種の「解読」を導入した、まさに最初の人だったという気がします。


文化現象は、人間の行為の累積であって、具象的な実態である。したがって、文化現象の行為者―つまり文化の担い手―の誰しもが意識して行っていることである。しかし、個々の文化現象を統合して、文化を文化たらしめている構造は、行為者自身によって意識されていないのが普通である。文化人類学はそれを解読するのを使命としているとレヴィー=ストロースは考えているのである。ここにはマルクスの影響のほかに、精神分析学、または深層心理学の考え方が持ち込まれている。というのは、深層心理学にあっては、個人の無意識の心理と、個人の構造、思考との関係が問題の中心となるわけだが、レヴィー=ストロースでは、社会または文化、つまり集合表象における「無意識」の構造の究明に並々ならない努力が傾けられている点が種を異にする。


多くの人類学者は、考古学を、文化人類学の一部をなす学問であると考えている。レヴィー=ストロースも、そのように考えている1人である。考古学の方法の一つは、地質学のよって立つところの層位学―地層の重なりを追求して、地質構造の新旧関係を明らかにする方法―に基礎を置いているのである。レヴィー=ストロースが、集合表象の構造を、意識の地質学と呼んだのは、たんい比喩とだけではないのである。文化と歴史との関係について、歴史は文化の構造を理解するために有効であると述べていることを思い合わせると「意識の地質学」における意識の層位と歴史との関係を理解することが容易になる。


レヴィー=ストロース、第一は、人類学者が、自分の資料だけでは仕事をすることはできないということです。彼は同僚たちの集めた資料、しかも異なった文化や異なった歴史的時代に生まれた同僚たちの集めた資料すらも使わねばなりません。そしてこの仕事の批判的評価ができるためには、ある程度自分自身でも(野外調査の)経験を持たなくてはならないのです。第二に、人類学あるいは民族学をかけがえのないものにしているのは、それが野外調査者のうちに作り出す(心の中に現れてくる)拘束の種類にある、と私は感じています。それは個人として、また、大抵は自分自身の文化と文明の代表者として人格的にかかりあうようになると、全く異なった文化の理解に努めることからくる全的な変動を経験することなのです。



ソシュールによれば、言語は観念を表す記号であって、それは意味するものと意味されるものとの統合体である。しかし、音声言語を伴わない記号も、おびただしく存在する。

例えば、集団の間の婚姻関係のシンボルとしての花嫁や、マリノフスキーのところで述べられているクラの財貨から、ハイウェイの道路標識や便所の男女の標示に至るまで、およそ意味の表現、伝達に関わる一切を記号と見ることができるわけである。

そればかりでなく、一見、表現や伝達を目的としない事象も、意味作用を持つ記号と理解で来る場合も少なくない。例えば、黒衣は喪を、餅は正月、七面鳥はクリスマスを、スミレは春を、雪は冬を意味するとすれば、黒衣は喪の、雪は冬の記号と考えて差し支えないのである。


ソシュール学派の言語理論のうちで、レヴィー=ストロースによって採用された基礎概念を簡単に説明しておこう。まず第一に、言語における「ラング」と「パロール」の基礎概念である。ラングは、伝達を可能とする社会的約束としての言語体系、または言語そのもののことであり、パロールは、その拘束によって実現される言語行為である。

レヴィー=ストロースでは、神話そのものをラングとして理解し、それが語られる状態をパロールとするところから、彼の分析が始まるのである。さらにラングとパロールの関係を社会構造に採用すれば、社会制度がラングであり、それにのっとった社会的行為がパロールとなる。また文化全体に言えば、文化に表現を与える「意識されない構造」がラングであり、文化行為をパロールと見ることができる。


ジャコブソンなどによる情報理論にあっては、ラングとパロールの概念をコードとメッセージという用語に置き換えた。まず情報が送信者から受信者に伝達される場合、両者が共通の(符号)を持っていれば、送信者はコードに則って情報を符号化し、これを送り届ける。受信者はコードに基づいて、これを解読することができるわけである。この際の情報は、コード・システムの原則に準拠して、記号の組み合わせとして表現され、選択されることにいよって、現実化したメッセージとなる。したがって、コードがラングに、コード化の作業がパロールに、ほぼ匹敵する。レヴィー=ストロースは、このような考え方を、ジャコブソンとの共同研究を通して、社会制度や慣習の研究に用いた。


同じ社会制度(コード)を共有している社会集団の中では、その制度に則った個人の行動は容易に理解されるが、共通の制度を持たない外部のものには、彼の行動は全く了解できない。また、コードにも、人工言語や成文法のような明確なものから、慣習や自然言語のようにやや曖昧なものもあるから、送信者と受信者の間の通達が完全でない場合もありうるわけである。また、婚姻を集団お間の縁組と理解すれば、その所属している手段の間の縁組と理解すれば、その所属している集団から離れて、他の集団に所属を変える花嫁は、婚姻制度(コード)に則って、一つの集団から他の集団に送られるメッセージと考えることができる。このような立場から見ると、婚姻制度と婚姻の意味が、広く社会構造全体の中で捉えられることになるのである。


次に、記号の構造に見られる意味するもの(能記)と意味されるもの(所記)、この二つの対立概念を、他の角度から考えてみよう。能記に音声言語以外のシンボルを含めると、この概念はあらゆる記号に適用できることになる。ただし、言語においては、この二つの関係は、社会的な約束によって強制される。例えば、トリという音声と「鳥」そのものの間に、必然的な関連はないが、トリという音声は「鳥」を意味することを強制される。この点、言語学では、音韻論としてめざまし発展を遂げている。ところが、その他の記号の世界では、二つの関係が、強制的ではなく恣意的である。例えば、黒という記号が、不吉なことを表す場合もあれば、高貴なものの表現でもあり得る。したがって、言語以外の記号については、理論的な枠組みは出来上がっていても、それをさらに具体的に展開することはなかなか難しい。

しかし、レヴィー=ストロースは、音韻論に見られる法則が、人間文化の同じ諸要素である制度や慣習にも当てはまるのではないかと考えた。特に、言語に見られる法則が、トリの例で言えば、「鳥」を「トリ」と呼ぶことには何も理由がないように、無意識的であることに注目した。彼は「歴史学が人間の意識的表現に関する事象を研究するのに対して、民族学(文化人類学)は、人間社会の意識されない集合表象を対象とする」ものであると述べている。


ラングとパロールと密接に関連のある連合(類似)と統合(隣接)の概念を設定したのは、ソシュールであって、これを明瞭にしたのが、ジャコブソンである。ソシュールによると、人間はある言葉から、これと形もしくは意味の似た言葉を連想する。これが連合(類似)なのである。

一方、意味を表すためには、言葉を、目で見ることのできない存在的な言語体系(例えば、言葉の客略や文法)にしたがって結合させなければならない。このような結合は、類似による連合と全く異なった作用で、意味による言葉の結合を成り立たせるのが統合であり、ラングなのである。


レヴィー=ストロースは、あらゆる正統派的学問と共に隣接科学の尖端的理論を吸収して、それらを彼の一身に統合しているところに、その近代的存在価値がある。しかも、さまざまな学者の理論の受け止め方が、マルクシズムやフロイトの深層心理学に対して端的に現れているように、彼独特のものである点においても、特に精彩を放っている。