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2024/06/15 06:53

ピーター・ベルウッド 著 

『農耕起源の人類史』 (京都大学学術出版会 2008年)


生産性向上のための資源管理技術を工業的と呼ぶのであれば、初期の農耕はすでに工業性を孕んでいた。次に、ある集団内の関係が、その資源管理の技術と結びついた構造を成していたか。

また農耕民特有の思考様式は存在するか。


この仮説によると人類拡散が農耕の発達に伴って起こり、人口、言語、文化がかなり強い相関関係を持つ傾向にある。


農耕が比較的独立して西南アジア、中国中央部、ニューギニア高地、メソアメリカ、中央アンデス、ミシシッピ川流域、そしておそらく西アメリカと南インドで生じたことはほぼ確かである。これらは1万2000年~4000年前の時代に独立して起こったものである。


他の全ての分野に勝る究極の分野は歴史学である。世界中に展開した人類の歴史である。比較による歴史的解釈が本書の目的である。そこでは考古学、比較言語学、考古遺伝学の分野が手助けとなる。


以前に、いくつかの広範囲に広がる語族が存在していた。語族は共通の祖先を持つ言語群を意味し、共通の祖先から分岐したと考えられる。これら語族は故地から拡散したために存在するのであって、以前は関係がなかった言語がある場所に集中したために存在するのではない。


人類の初期農耕の中には、広範囲に広がった考古複合体が多く存在する。考古複合体とは、人間が作り出す人工物の様式、共同の経済基盤、そして一時的な住居などがお互いに関連しているモノを指す。


最も重要なことは、多くの農耕機現地は地理的に主要な語族の故地と重なっているということである。


1)農耕とは何か、またどの程度の生産性と人口密度があれば、農耕を維持できるか

2)農耕はどの様に発生したのか

3)農耕は生産性と生活設計の上で、狩猟採集とどの様に関連しているのか

4)農耕民と最初に接触した時、狩猟採集民はどの様に反応したのか。

5)狩猟採集経済は農耕と接触する過程を通じて、どの様にして完全な農耕経済に転換できるものなのか。


資源管理は、農耕や栽培と同義語なのではなく、明らかに農耕の始まるよりもはるか以前から、全ての動植物に対してある程度行われてきた行為である。


本書は初期農耕民の拡散についての本である。


第一に意図的な植え付け作業と栽培の季節性がなければ、世界のどこであれ農耕は始まらなかっただろう。これらの二つの活動は、究極的には栽培化された植物を生み出すために必要だったし、明らかにまず野生植物を対象に始まったのである。


完新期における温暖化は、1万1500年前に急速に生じ、世界の気候は温暖で湿潤になり、より安定性の高いものになった。まさにこの安定性の高さこそが、農耕に有利な状況となった。気候が安定することで、まず野生植物が増加し、集落の定住性と人口が増した。その結果、他の集団との間に「競争の歯車」が働き出すという、連鎖反応が生じたのである。いったん農耕の流れが始まると、もうほとんど後戻りはなかった。


ある説によれば、社会的なストレス(社会的な奨励)こそが第一であり、それは個人間や集団の競争によって高められた。資源の豊かな環境下における農耕に向けての動きを刺激したのは、好機と見返りを期待しての意識的な努力だったのかもしれない。共同体の人口増加と他の共同体との競争力の獲得がここには含まれるだろう。同様に、多くの説が食糧供給を増加させる上での社会的な競争原理による需要の増大が食糧生産への道を開いたとする。その様なシナリオは、社会的地位を確認するために、競合的祝宴や、食物を含む公益によって得られた外来の貴重品の蓄財に価値がある社会で起こると期待できよう。比較的緩やかな環境下で、社会集団が狩猟採集社会を維持するために家族間で平等に食糧分配をしなければならないという道徳感を守らなくてもよかった場合にこうしたシナリオが起こる。

食料が豊富な環境のもとでは、比較的定住度が高く、家族は自分達自身のために食料を貯蓄することができ、したがって個人的または家族単位の富の蓄積に結びつきやすいが、これは競合的祝宴に必要な条件である。


常に平等に分配しなければならないという意識の低下は初期農耕にとって重要な要素であり、貯蔵を伴う定住的な生活パターンへの移行と結びついた豊かさや祝宴儀礼は平等分配への意識低下をさらに助長した。


初期農耕への移行を説明するとき、豊かさと交互に来る穏やかな環境ストレス、とりわけ完新世前期の、食料供給が断続的に変動する「危険」と生産性の高い環境とを関連させる説がある。この様な活動の大部分は、低緯度から中緯度にかけての危険度の高い環境下で記録されたと指摘している。


このように、農耕の地域的な発生には非常に複雑なさまざまな変数が含まれていたに違いなく、すなわち農耕に先行した定住性、豊かさ、淘汰、また人間と植物の共進化、環境変化や周期的ストレス、人口圧、そして栽培に適した種の入手可能性、これらのいずれをも見過ごしかねないという点を強調しておく。植栽行動は野生植物の収穫の後で神々を鎮めるために始まった。栽培の登場に先んじて「表象の革命」があったとする。


狩猟採集民はしばしば資源管理を行う。

狩猟採集民の多くが、山に火を入れたり、植えかえを行ったり、排水路を築いたり、囮となる動物をとどめておいたり、家畜犬を飼うなど、周辺環境をある程度改変して食料を増加させる行動をとることが最近観察されている。それは考古学上の原初的農耕に類似した資源管理技術と言えるかもしれない。

「食料採集」と「食糧生産」との間にある程度の重なり合っていることを示す。ここで問題としているのは、どのレベルの「食糧生産」かということである。有能な採集民であれば、資源管理を行い、随時菜園を設け、あるいはある程度動物を飼い慣らすこともできる。しかし、遊動狩猟採集民が自由自在に農耕(あるいは牧畜)依存の生活様式へと乗り換えたり、元に戻ったりできるという考え方は、非現実的である。なぜなら二つの生活様式の根底に関わる資源利用、移動、活動の年間スケジュールの違いがあり、変更は容易でないからである。

独立した二つの生産形態間で交易や交換による相互扶助が行われている。


農耕民と狩猟採集民の間に見られる相互作用のネットワークは、制限の緩やかあな状況下では、おそらくの農耕民の数がある程度増加するまでは安定したものである。数が増えた農耕民は、その結果より多くの土地を必要とする。すると、狩猟採集民は工作労働者として農耕民の下で働くか、あるいは、もし条件が整えば農業を受け入れる。


農耕民と限られた接触しかないか、全く接触を持たなかった人々もあった。農耕民との距離があまりに遠かったためであるし、また別のグループは農耕民との間に狩猟採集民が移住する広大な土地があり接触から「守られた」おかげであった。

これらの狩猟採集集団のうち、首長制社会などでは、ウッドバーンの用語によれば、互酬的債務に関して遅延返納制がみられた。彼らにおいては平等主義が遥かに後退していたのである。彼らは婚姻や儀礼の点では双系制社会というよりもリネージ制であり、遅延返納の必然として食料を貯蔵し、即時返納制集団よりもしばしば遊動性の程度が低く、理論的におしなべて、蓄財と貯蔵という成功した農耕民とかさなり合う点が非常に多い。首長制社会の起源は、資源と人口密度の集約性・信頼性と関連が深い。


プナンの場合、人々は河川流域にいた農耕民が進出困難な川と川の間に広がる熱帯雨林での狩猟採集に意識的に移行した。

プナンの女性とカヤン農耕社会出身の男性との婚姻がしばしばあったにもかかわらず、農業の需要にいかに抵抗したかについて注目している。実際、狩猟採集民の女性と農耕民の男性との婚姻は民族市上極めて普通に記録されているので、両者間の婚姻は文化的遺伝的交流の主な手段といえる。一方、狩猟採集民の男性が農耕民の妻と婚姻することは稀であって、特に婚資が必要な場合にはこれは困難である。


狩猟採集民が、農業の受け入れが困難だった場合に関して二つの理由がある。すなわち、農業に適さない社会関係という内的な理由と、他の集団との関係という対外的な理由の二つである。

オーストラリア北部の場合、アボリジニたちは海と、そして南に行くほど長くなる換気によって、農耕民と隔てられていた。


今度は、新石器時代と形成期の時代に立ち返って、どのタイプの狩猟採集民が封じ込め似合う危険を避けながら、冷静沈着かつ成功裏に八方塞がりの状況を交わしたかについて考える必要がある。それは、言語および物質文化の拡散お主な原動力となった農耕を先史時代における狩猟採集民がどう受け入れたかという問いだ。


古代狩猟採集民は、近隣の農耕民に対して人口あるいは環境の上で優位に立つか、農耕に対する日頃の無関心を振り払うほどの重要な理由があるような状況下でのみ農業を採用したように思われる。