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2024/09/22 16:29



クローズド・レヴィ=ストロース著  大橋保夫 訳  

『野生の思考』 (みすず書房 1976年)


「供犠」


関係の体系性には二面性がある。内的整合性の面であり、他方は、実質的に無限の拡張能力の面である。

現実世界はシェマの働きによって徐々に鈍化されてゆき、その極限においては、この作業に合致した単なる二項対立(上と下、左と右、平和と戦争、など)の形をとる。

(シェマとは、個体が環境と関わる時の認知・操作の枠組み)



未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりする時に示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別な感受性の働きを持ち出したりする必要はない。

,,,一連の対話の中で働いて、自分の気持ちに似た相手の気持ちが記号の形で表されることになり、まさにそれが記号であるが故に理解を要求するため、我々が懸命に解読しようとするからである。

このように我々は、人間と世界が互に他方の鏡になるという、展望の相互性が機械文明の面に移されているのを再び見出すのである。

そしてこの相互的展望は、それだけで、野生の思考の属性と能力を教えてくれることができるように思われる。

登場する存在は、同時に主体として、また客体として、ぶつかり合う。そこで使われるコードでは、両者を隔てる距離の単なる変動が、声なき呪文の力を持つのである。

(呪文のような技術は、新石器時代から何世紀にもわたる能動的かつ組織的な観察を必要とし、また大胆な仮説を立ててその検証を行い、倦むことなく実験を反復して、その結果捨てるべきものは捨て、取るべきものは取ると言う作業を続けて初めて成り立つものである。)


(神話や儀礼の主要な価値は、観察と思索の諸様式の名残を現在まで保存していることである。さらに神話的思考とは、いわば一種の知的なブリコラージュである。これにはルールがある。それは使う資材の世界は閉じている。そして「もちあわせ」すなわちそのときその時限られた道具と材料の集合でなんとかする。この「もちあわせ」の内容構成は、いかなる計画にも無関係である。いろいろな機会にストックが更新され増加し、また前にものを作ったり壊したりした時の残り物で維持されているのである。ブリコルールの用いる資材集合、存在的有用性は「まだ何かの役に立つ」と言う原則によって集められ保存された要素である。それらは操作媒体、オペレーらーである。これは同一のタイプに属するものならどのような操作にも使える操作媒体である。

神話的思索の諸操作媒体は常に知覚と概念の中間に位置する。さらに、イマージュ比喩、心象と概念の間には媒体が存在する。それは記号である。すなわち、記号とは心象と概念の結合である。)


(ブリコルールは計画ができると、まず後ろ向きに今まで集めて持っている道具と材料の全体を振り返って見て、何があるかを全て調べ上げる。その次に、道具材料と一種の対話を交わし、今与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な回答を全て並び出してみる。しかるのちにその中から採用すべきものを選ぶのである。ブリコリールの「アイディアの宝庫(呪術)」を構成する雑多なもの全てに尋ねて、それぞれが何の「記号」となりうるのかを掴む。)


(文明の1状態を要約したものである諸拘束に対した時、ブリコルールはその手前に止まる。エンジニアは常に通路を開いてその向こうに越えようとする。言い換えれば、エンジニアが概念を用いて作業を行うのに対して、ブリコルールは記号を用いる。エンジニアとブリコルールはどちらも情報を狙っている。概念は仕事に使われる資材の集合を開く操作媒体となるが、記号作用はその集合を組み替える操作媒体であって、集合を大きくもしないがそれの変換群を獲得する)



野生の思考は、観察の時点と解釈の時点とを区別しない。それは、相手が話せば、我々の耳に聞こえて音声は同時に記号化作用を運んでいる。言語音声を分解して取り出される要素の一つ一つは記号ではなく、記号を作る手段である。それは弁別的単位であって、他の単位に入れ替えると、必ず意味が変化してしまう。

分類体系を意味の体系とみなすこの考え方をはっきりさせるためには、「トーテミズムと供犠との関係の問題」と、「氏族呼称の起源を説明する神話の全世界的な類似性の問題」を取り上げれば良い。

供犠の場合、この神、この種類の供犠には何、というように、犠牲に使われるものに好みの違いがあることは珍しくないけれども、基本原理は代理である。意図だけが肝腎なのであって、それが変わらなければ良いのである。したがって供犠は連続性の世界に位置するものである。例えば瓜を牛として扱うとき、類似は頭の中にあるのであって、知覚の問題ではない。「瓜は牛である」という言い方は、瓜は牛であるけれども、牛は瓜ではない。

供犠の場合は、供犠執行者と神という二極項間の仲介者の役割を果たす。この両項の間には、はじめは相同性どころか、いかなる関係も存在しない。

供犠の目的はまさに関係の設定であり、その関係は類似性の関係ではなくて隣接性の関係である。

犠牲の神聖化によって人間と神との間に関係が確立されると、その次に供犠の儀礼はその同じ犠牲を破壊することによって関係を断ち切るのである。連続性の解消はこうして人間の所業となる。ところが人間は前もって人間側の貯蔵タンクと神の側の貯蔵タンクをとの間を導管で繋いでおいたのであるから、神の貯蔵タンクの方が自動的に空所を埋めて、人間があてにしている恵みを施すことになるはずである。



供犠は、元々引き離されていた二分野の間に望ましい連繋をつけようとする。供犠の目的は、遠くの神による人間の願望の充足を求めることである。神聖化された犠牲(両方の性質をもつ両義的対象物となっている)を用いて両分野を繋ぎ、次いでこの連繋項を除去することによって、その目的が達成されると考えるのである。供犠はこのように隣接性の空白をこしらえ、祈りの指向性によって、別の面における代償的連続性の出現を引き起こす。元々何が欠如していたかは競技執行者が感じているわけで、それによって神の通り道はあらかじめ、いわば点線で、引いてある事になる。



供儀は差異を消滅させる手段として比較を用いる。それは隣接性を確立する目的にも役立つ。

トーテム分類は二重の客観的基礎を持っている。自然種は実際に存在し、しかも実際に非連続的に系列の形をとって存在している。また社会区分の方も存在している。いわゆるトーテミズムは、この実際に存在する両系列の間に構造の相同性を想定するだけなのである。これは完全に正当な仮定である。それに反して供儀の体系は、神という存在しない項を介入させる。



トーテミズムと供儀との喰い違いを表現するのに、前者は対応関係の体系であり後者は操作の体系であるというのでは不十分である。またトーテミズムは解釈の図式を作り上げ、供儀はある種の成果を獲得するための技術を提示すると言うのもダメである。トーテミズムは正しいが供犠の方は誤りである。より正確に言うのであれば、分類体系は言語のレベルに位置する。それは出来不出来はあるにせよ意味を表現するためのコードである「双方向」。それに対し供犠の体系は個別的な言説(完結した一つのメッセージの一文)であって、しばしば大声で呼ばれるけれども良識(正しい判断を下す能力)を欠いている「一方向」。

なぜ、血を必要としたのかは、岩田さんが言っているように、湧き上がる生命感ではないか。それを体の中から感じ取るためだったのではないか。アドレナリンなのかドーパミンなのか何かが湧き出る時に人は私ではない何かになったと感じたのではないだろうか。






この箇所を読んでいて。

ストロースが誰かと喋りながら文章を書いていると思いながら読んでいた。

読み進めていると、検討した内容で違ったことも残している。読んだ人がその周辺を探さなくても良いように、まだ探していない場所を分かりやすくしている。

そのため、ストロースの文章は終わりがない。