2024/10/05 19:52
エドワード・ホール 著 日高敏隆 訳
『かくれた次元』 (みすず書房 1970年)
個々の動物は、一連のバブルというか不規則な形をした風船のようなモノで囲まれており、それが個体間のスペーシングそのものの維持に役立っている。そのうち、「逃走距離」と「臨界距離」と呼ばれる二つの距離は、異なる種の個体が出会った時に用いられる。一方、「個体距離」と「社会距離」は同じ種のメンバーが相互に関わり合う時に認められる。
精神分裂症患者たちは、彼らあの「逃走距離」内に何かが入ってきたことを、文字通り彼ら自身の中に何者かが入ってきたと述べる。すなわち自己というものの境界は、身体の外にまで広がっているのである。我々のいう自己なるものの認識は、境界を明確にしようとする過程と深く結びついている。
二つの異なる知覚世界がある。一つは「視覚中心」の世界であり、もう一つは「触覚中心」の世界である。触覚中心の世界の方が、視覚中心の世界より直接的であり、しかもずっと友好的である。
ヨット乗りの人々の言うところでは、帆走の魅力は視覚的、筋覚的、そして触覚的体験の相互作用にある。手に舵の柄を握っていないと船に何が起こっているかほとんどわからないと語っていた。疑いもなく、帆走はその愛好者たちに、何かあるものと接触していると言う感覚(自動化されてゆく生活の中で我々には否定されてしまっている感覚)を新たに呼び覚ましてくれるのである。
旧石器時代の洞窟画家は明らかに、彼が自明なものと見做していた感覚の豊かな世界に生きるシャーマンであった。彼はその世界が彼自身とは無関係に経験されるものであることを、幼児と同じく、朧げに悟っているだけであった。彼は多くの自然現象を理解できなかった。自分がそれを制御できなかったから尚更のことである。絵画が、自然の力を制御しようとする人間の最初の試みであったと言うことはありうることだ。シャーマン=画家があるものの姿をうつすことは、それを支配する力を得ることへの第一歩であったのかもしれない。そうだとしたら、それぞれの絵画は力を得るための別途の創造的行為、幸運追求のわざであって、いわゆる美術そのものとはみなされてはいなかったことになる。これと同じ呪術的絵画が後にはシンボルにまで簡略されて、呪術の効果を高めるために祈祷の数珠のように幾度となく複製されたのである。
レンブラントの絵が適当な距離から見ると立体に見えることは、彼が極めて明確にそして最も綿密に描いているところへ我々は目を集中させ、そこへ留意しなくてはならない。その場合、網膜の中心領域と絵の最も綿密な部分とが合うように距離を取る必要がある。こうすると画家と見るものの双方の視野の記載が一致する。
印象派について重要なことは、見る側にポイントを置くことから再び、空間へと焦点を移したと言う点である。彼らは空間に何が怒るかを自覚的に理解し描き出そうとしていた。
人間の自覚(まず自分自身についての、次いで自分の環境についての、さらに環境によって測った自分についての、そして最後に自分と環境との相互作用についての自覚)
ベンジャミン・リー・ワーフはその「言語・思考・現実」においてボアズよりさらに先へ進んだ。彼は、全ての言語はそれを用いる人々の知覚世界を現実に形成する上で顕著な役目を果たしていると、示唆したのである。
我々は自然を、我々の母語によってひかれた線に沿って分割する。
我々が現象の世界から取出すカテゴリーや類型は、自然そのものからは見出し得ない。
世界は万華鏡的な印象の流れであって、我々の心がそれを組織化するのである。これは我々の言語体系によるものである。
人間がどんなに努力をしても自分の文化から抜け出すことはできない。なぜなら、文化は人間の神経系の根源まで浸透しており、世界をどう近くするかと言うことまで決定しているからである。人間は文化というメディアを通してしか意味ある行為も相互作用もできないからである。
民族の危機、都市の危機、そして教育の危機は全て互いに関連しあっている。包括的に見るならば、この三つはさらに大きな危機の異なる局面と見ることができる。その大きな危機とは、人間が文化の次元という新しい次元を発達させたことの自然的な産物である。すんかの次元はその大部分が隠れていて眼に見えない。問題は、人間がいつまで文化の次元に意識的に眼をつぶっていられるかである。