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2024/10/21 10:40

クロード・レヴィー=ストロース 著     

『食卓作法の起源』 (みすず書房 2007年)


神話的思考の構造分析を深める為には、決定的な移行は天体のコードにおいて起こると思われる。季節変化と技術・経済的な活動という生業における対比によって構造化された緩慢な周期性を特徴とする星座から、より短期的な昼と夜という別のタイプの周期性を規定する太陽と月という、個体としての天体への移行が行われる。

こうした天文学的コードはその局所的性格によって他のいくつかのコードと噛み合わなくなるということではない。例えばそれはある種の算術の哲学を呼び起こす。

神話的思考の最も抽象的な考察が、調理法などの具体的な行動に関わる考察を解く鍵を提供するということに我々自身が驚かされたのである。


この本の議論は、民族誌、論理、意味論の三つの次元で展開されている。

まず民族誌の視点からは、広大な空間にまたがって、生業形態、社会組織、信仰に関わるさまざまな隔たりを克服しなければならなかった。

次に形式的な視点について言えば、とりわけ宇宙的、空間的な垂直軸に乗った対立関係を超えて、われわれは水平軸状で社会的・時間的軸の上での対立を規定する。空間が絶対的なものであるとすれば、時間は相対的なものである。


この間で最初から最後まで問われた対立関係は、空間の要素として項ではなく、項の間に知覚された関係、項が近すぎるか、離れ過ぎているかという関係なのである。

それはすなわち結合、分離、媒介のそれぞれが経験的な様式で例示され、それに付与される価は近似的なものにとどまるのだが、そのそれぞれがおそらくは関係の用語によって定義されるのだとしても、それと同時により行為の結合演算の項となりうるということである。


第一巻の表題となった「生のものと火にかけたもの」の対立は料理の不在と存在との対立であった。

第二巻では、我々は料理の存在を想定した上でその周辺を探索した。

第三巻では料理の輪郭をたどった。

すなわち料理の自然側に位置する消化と、文化側に位置する調理法から食卓作法までの広がりとである。

実際のところ、これらは二つの秩序に属している。というのも調理が自然の素材を文化的に加工する方法を規定するのに対して、消化はすでに文化によって処理された素材を自然に加工することであるとすれば、対照的な位置にあることになるのだから。

食卓作法について言えば、それは調理の仕方に上乗せされた摂取の作法であり、ある意味では二乗された文化的加工とも見なすことができる。



「料理民族学小論」

北部のトゥピ諸族のもとに、消化を、火を使った料理に対する自然における補完物と見なす、言語化されていない生理学が存在することを確かめた。

火を使った料理は、われわれが別の場所で、焼かれた世界と腐った世界と呼んだものの間を媒介する。

消化管の存在は、口あるいは肛門の欠如に対して、同様の役割を果たしている。口の不在の場合には、食物は煙という形をとるしかない。

肛門の不在の場合には食物は同一の開口から摂取されまた排泄され、従って食物は排泄物と混同されるのである。消化の過程で身体器官は食物を加工した形で排泄するまで、一時的に内部に保管する。従って消化は、生の状態から腐敗による解体に至る自然の過程を中断するという料理の機能にも比較できる媒介機能を持っている。



食べ物は人間にとって主に三つの状態、すなわち生か、調理済みか、腐ったかという状態で現れる。料理に対して、生の状態は無微の極をなしているが、他の二つの状態は正反対の方向で強度に微を帯びた状態となる。すなわち火にかけたものは生のものを文化的に変換したものであるのに対し、腐ったものは生のものを自然に変換したものなのである。主要な三角形の下に、二つの対立、すなわち一つは、加工された/未加工の対立と、もう一つは文化/自然の対立を見分けることができる。


あらゆる料理において単純に火にかけたものと呼べるようなものはなく、具体的なこれこれの仕方で火にかけたものであると呼べるのである。同じように純粋な状態の生のものも存在しない。ただ一定の食べ物だけが、必ず味付けさせるということではなく、あらかじめ洗って、皮を剥いて、切った上で食べられるのである。さらに、腐ったものに最も許容度の高い料理においても、自然なあるいは人為的な一定の腐敗の過程のみを許容しているのである。


『生のものと火にかけたもの』では、我々は意図的にこうしたニュアンスは無視した。そこでは南アメリカの事例を出発点として、料理の三角形を最も一般的な形で定義し、それがいかにしてあらゆる文化において宇宙的あるいは社会学的対立を表現する形式的な枠組みになりうるかを示すことが問われていたのだ。

このようにしてその内的な特性によって内部から確定した上で、『蜜から灰へ』では、料理の三角形の周囲を外から観察した。

ここでも前と変わらず形式的な視点にとどまりつつ、生のもの、火にかけたもの、腐ったものをそれ自体あるいはこれに類似した対立の体型の視点から定義するのではなく、より生のもの、すなわち蜂蜜と、より火にかけたもの、すなわちタバコという、周辺的な機能との関係で定義することを試みたのである。

この第三巻で扱った神話では、神話そのものが、生のもの、火にかけたもの、腐ったものを対立させるだけでは収まらなくなり、数多くの社会で火にかけたものの基本的な様態を表している。



煮たものは肉に含まれたものを失うことなく、閉じた器の中で加工される。そのために煮たものは宇宙全体を象徴することができる。

煮たものは生であり、串焼きしたものは死である。

オジブワ雑煮とっても煮たものは世界の秩序に関わっている。というのも、あれらは普段はリスを割いて火に当てて焼くのだけれでも、雨を降らせたい時にはリスを煮るからである。この事例では、串焼きと煮たものには示差的な機能が与えられ、その使い分けが宇宙そのものの縮尺模型とも言える、一つの料理の宇宙を形づくっている。ウェールズ地方に見られる風変わりなレシピはおそらく、このような見方で解釈しなければならないだろう。


我々はこうして再び、構造は、神話を生成する力を不可避的な非対称性から得ているということを確認することになる。神話とはこうした構成する非対称性を修正あるいは隠蔽するための努力そのものに他ならない。


料理の三角形に戻ることにしよう。この三角形の内側にもう一つの三角形が描かれることになった。ここでは最も単純なレシピとして串焼きと煮たものと燻製だけを取り上げた。自然と文化の境界線は、空気の軸と水の軸とのどちらとも随意に平行に引くことが出来るが、手段に関しては串焼きと燻製を自然の側に置いて、煮たものを文化の側に置くが、結果に関しては燻製を文化側におき、串焼きと煮たものとを自然側に置くのである。

我々はこのモデルを、我々自身の体系と、さらには他のいくつかの体型の持つ一面を反映している一つの例として提示したのである。


モデルはさらに別の次元を付加することで、通時的な側面、例えば食事の順序、見せ方、身のこなしといったことを組み込むこともできよう。

すなわち、規則正しい食事と不規則な食事、順次出される料理と、同時に出される料理、一定の種類の食べ物の間の両立可能性と両立不可能性、一方の部族における大食いの競争と、他方の部族におけるそれに代わる財の競い合いなどなどである。

こうした対比を、男と女、家族と社会、村と森、節約と浪費、貴族と平民、聖と俗など…の、食べ物に関わらない、社会学的な、経済学的な、美学的なあるいは宗教的な対比に重ねあわせることが出来るのは疑いない。

こうしてそれぞれ個別の事例に即して、一つの社会の料理が、その社会が無意識のうちにその構造を表明する、さもなければその矛盾を同じように無意識のうちに自ら暴いてみせる言語となっているということが発見できるだろうと期待しうるのである。